砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

小説の冒頭で一番よかった作家はというと

 どうにも小説の、エピソードごとの書き出しに難儀しているので、昔の作家をパクることにしました。
 すでに死んでいる外国人作家(著作権切れてる人)の、ちゃんとした翻訳を参考にテキストをいじって使う。
 まず図書館に行って、古い文学全集(1960年代末から1970年代はじめにかけて刊行された「新潮世界文学」って分厚い本)の冒頭をカチャカチャと、スマホブルートゥースでつながるキーボードで入力するのです。
 この全集は、だいたいどの文学全集もそうだけど重くて、冒頭だけのために図書館から借りるのはめんどくさい。だいたいどの図書館もけっこう遅くまでやっていて、キーボードを叩いても迷惑でない場所がある。
 つくづく思ったのは、フランスの19世紀作家の冒頭はつまらない、ということです。
 その代わりに序文があるんですかね。
 序文がなくなって、「この物語は…」的な語りが小説の冒頭に組み込まれるようになったのは、19世紀末ぐらいかなあ。
 大岡昇平訳のスタンダール『パルムの僧院』はこんな感じ。

『一七九六年五月一五日ボナパルト将軍は、ロジ橋を突破した若い軍隊を率いてミラノにはいった。』

 だから何だよ、と言いたくなる。
 平岡篤頼訳のバルザックゴリオ爺さん』はこんな感じ。

『ヴォケー夫人、旧姓ド・コンフラン、は四十年前からパリで下宿屋を開いている老婦人で、彼女のその下宿は、カルチェ・ラタンとサン・マルソー地区の間にあるヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ街に位置している。』

 もう全力で、読みたくなくなるオーラがにじみ出てる。
 ちょっとよくなるのは、ドストエフスキー
 木村浩訳の『白痴』はこんな感じ。

『十一月も末、ある珍しく寒のゆるんだ雪どけ日和の朝九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車が、全速力でペテルブルグへ近づいていた。とても湿っぽく霧のふかい日だったので、あたりはようやく明るくなりかけたところだった。』

 これが、原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』だと、こんな感じ。

『アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフは、今からちょうど十三年前、悲劇的な謎の死をとげて当時たいそう有名になった(いや、今でもまだ人々の口にのぼる)この郡の地主、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフの三男であった。この悲劇的な死に関しては、いずれしかるべき箇所でお話しすることにする。』

 少しだけ、物語を語るぜ、という文体になるわけです。
 今のところ、感心したのはロマン・ロランという作家。名前ぐらいは知ってるけど、読んだことはない。
 新庄嘉章訳の『ジャン・クリストフ』。

『河の水音がごうごうと家のうしろで高まっている。雨は朝から窓ガラスをたたいている。すみっこにひびの入ったガラスに、水蒸気の滴(しずく)が流れている。黄色っぽい昼の光が消えていく。部屋はなま暖かく、どんよりしている。』

 宮本正清訳の『魅せられたる魂』。


『彼女は光に背をむけて窓ぎわにすわっていた。落日の光線をその首やがっちりした襟首にうけて。彼女は今しがた帰ったところであった。幾月このかたはじめて、アンネットは戸外で一日を過ごして、田舎で、歩きまわり、この春の日光に酔うた。芳醇なぶどう酒のように陶然とさせる日光は、葉の落ちた木々の陰にもうすめられず、そして去ってゆく冬のさわやかな空気に生気をおびていた。』

 この時代になると、映像的に語る、という手法が生まれて定着してるんですかね。20世紀のはじめぐらい。
 訳者によってだいぶ変わると思うので、訳者・作者の順で紹介してみました。他の翻訳テキストも打ち込んでみよう。

昔のライトノベルは少年漫画みたいで面白いんだけど、いつから冷笑系がメインになっちゃったのか

 昔、と言っても21世紀になってからの男性向けライトノベルですが。

 おれは!
 絶対に!
 あの子を守る!

 みたいな感じがあって、これはこれでけっこう悪くないのです。
 でも最近のラノベ読んでると違うんだよね。

 え? おれがあの子を守るの?
 はいはい、守りますよー。

 ざっくりこんな感じ。
 いつからこうなったのかは皆目不明だけど、涼宮ハルヒのシリーズがターニング・ポイントかなあ。キョンの語りがまあ、そのハシリみたいな印象。

 おれの!
 おすすめは!
 …『灼眼のシャナ』だ!

 今のライトノベルのおすすめは『エロマンガ先生』です。

そう言えば『天元突破グレンラガン』のカミナって利き腕はどちらなの?

 なるべくネタバレしないように語ると、『天元突破グレンラガン』(2007年)のカミナというのは、物語のほぼヒーローです。本当のヒーローであるシモンからはアニキと慕われ、そのカリスマ的言動は物語を動かす原動力になり、カミナシティに巨大な像が立てられます。
 個人的にはこのアニメはニア姫が出てきてからが好きなんですが、カミナがいないとはじまらない話であります。要するにドリルを持ったヒト(及びそれに類するもの)と神との殴り合いです。
 ただ、気になるのは、カミナが天を指差すところは2回、「地上」と「月(星々)」とがあるんですが、どっちも左手でやってるんだよね。
 だけど、カミナシティにある像は、どういうわけか右手を挙げている。これは何か意味があるんだろうか。
 あと、獣人のヴィラルと最初に会って長剣で戦うとき、カミナは実に面白い動きをします。つまり、右手で刀を持ってたのを途中で左手に変えて、ヴィラルの攻撃をかわし、右手に持っていた矢のヤジリで顔を傷つけるという「奇襲」をおこないます。
 だいたいこの場面で、カミナの剣は右手持ちで扱われるんですが、草を横に薙ぎ払うところと、刀を収めるところは左手持ち。
 結論としては…かっこよければそんなの気にしすぎないほうがいい。
 なお、ラストに近いところ、別世界のしょぼい泥棒をやっているときのカミナは、ひと仕事終えて酒場でビール(と思われるもの)を飲むところでは左手でジョッキを持ちます。
 この、飲み物をどちらの手に持たせるか、というのは、実写でも難しい判断で、たとえばパソコンのマウスを右手で使っている人は、左手でコーヒーを飲みますよね? 実にいろいろ難しい。

左利きの役者でロバート・デ・ニーロ以外に有名な人

 日本人では松方弘樹です。
 映画『修羅のみち』シリーズ(2001年~2005年)では哀川翔主演映画の悪役(ヴィラン)として出演し、銃を向けあったときには哀川翔が右手・松方弘樹が左手持ちになって実にかっこいい。
 このあたりの絵が『魔法少女リリカルなのは』(2004年)の高町なのは(左利き)とフェイト・テスタロッサ(右利き)の構図に繋がったんじゃないか、と勝手に思っています。
 しかし松方弘樹(黒田虎男)が組長やってる黒田組は、幹部に松田優(八雲政夫)もいて、この人も左利き。不思議です。
 あと、トム・クルーズも有名です。映画『ハスラー2』(1986年)では、ビリヤードのキューを左手で持って、ポール・ニューマンが右手で持ってて並んでる画像があって、これもとてもかっこいい。これが原点なのかなあ。探せばもっとありそう。
 映画『ラストサムライ』(2003年)では、トム・クルーズはちゃんと右手で剣を持つんですが、ななななんと、冒頭のウィンチェスターM1873(レバーアクション式)の早撃ち実演販売シーンでは左利きの撃ち方してる。

東京オリンピック・マーチと夏休みマーチ

 1964年の東京オリンピックのときに作られた「オリンピック・マーチ」に歌詞をつけます。
 高校生の夏休みの歌です。

きーた きーた 夏休みだよ
ぼくらの夏休みだよ

海に行って (さあ)花火やって (さあ)スイカ食べて
山に行って (さあ)花火やって (さあ)ゴミ拾う

さあ いつでもどこでも夏休み
でも いつかは終わるよ夏休み

ああ 夏期講習 補習授業
先生は休めない 夏休みでも

 なお、社会人の夏休みはまとめて一週間も取れればマシなほう。
 小説書いてる時間より、こういうくだらない歌詞を考えてる時間のほうが長い。
 そんなにスラスラとはできないのです。

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左利きによるロバート・デ・ニーロの例の奴の有名な物真似

 映画『タクシー・ドライバー』(1976年)で、ロバート・デ・ニーロは鏡に向かって以下のように言って、カシャカシャッと腕に仕込んだ拳銃を出します。(以下、英語版ウィキペディアより引用)

 

You talkin' to me? You talkin' to me? You talkin' to me? Then who the hell else are you talkin' to? You talkin' to me? Well I'm the only one here. Who the fuck do you think you're talking to?

 この「ユー・トーキン・トゥ・ミー?」というところは、左手で自分を指差し、そのあと右手に仕込んだ拳銃、なんですが、この場面は鏡に写った像なので、「右手で自分→左手で拳銃」という風に見えます。デ・ニーロの特徴的なホクロが顔の左側にあるので、すぐにわかりますよね。
 つまり、映画のこの場面を正確に物真似するためには、左手に拳銃、という風にしないといけない。
 この映画の中での拳銃は、基本的に右手持ちで練習していますが(多分装填が左手だと面倒くさいとか、そんな理由)、娼婦の館の前にいるボスを撃ち殺すときには、デ・ニーロは左手を使います。それから、中にいる人に左側面を撃たれて、あとは右手を使い、最後には血まみれの自分の左手で「バーン」と頭を撃つ真似をします。
 ロバート・デ・ニーロ自身は左利きで、このあとの映画『レイジング・ブル』(1980年)では左利きのボクサー(だったかなあ、どうも記憶があいまい。とにかく左パンチがすごいボクサー)を演じます。
 細かく見ていくと、コーヒーカップの置き方とか、タバコの持ち方とか、いろいろな映画のいろいろなところで、デ・ニーロは左利きっぽい演技をします。

鮎川哲也『黒いトランク』の謎

(以下ネタバラあるので注意)
 本格ミステリとして読んでおかなければならない名作ということになっている鮎川哲也『黒いトランク』を読みました。
 あれは、トランクの入れ替えトリックとアリバイトリックをかっちりやってて、鉄道好きの人でも満足できる時刻表ミステリーです。鉄道と船が主な移動手段の時代の話(1949年末から1950年はじめ)なので、今はもうこのトリックは使えない。小河内ももうダムになっちゃったし。
 トランクの入れ替えトリックは、大きい黒いトランクの中に少し小さい黒いトランクを入れておく、という、天藤真大誘拐』でも似たようなアイデアが使われたトリックです。
 というのは大嘘です。でも読んだら「へえ」と感心する。感心はするんだけど「ええっ!?」と驚くようなレベルではない。
 あと、犯行の動機がすげえおかしい。これは『虚無への供物』と同じ。疑似社会派。
 納得いかないのは、犯人が若松駅から二島駅を通って福間駅に行くトラックの件なんですよね。
 この話、うまいことうまい時間に、犯人を運んでくれるトラックが通りかかって、うまく列車に乗れないと成立しない話なんだけど、あの時代のことはさっぱりわからないんで、そこんところどうなの? とか思う。
 あとこれ、真犯人は由美子さんだよね? 犯人とされている人の遺言はどうも嘘っぽすぎるんだよなあ。