砂手紙のなりゆきブログ

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吉本隆明とは何だったのか(吉本隆明という「共同幻想」)

 呉智英吉本隆明という「共同幻想」』(2016年、ちくま文庫)は、1960年代から1980年代にかけて、大変もてはやされた吉本隆明という評論家について、21世紀的な知見をもってぶった切っている痛快苦虫系の本です。
 吉本隆明に関しては、吉本ばななのお父さんであり、別にお笑い芸人ではなく、柄本明に似ている人、ぐらいな印象しかないんですが、あ、あと「浅田彰柄谷行人蓮實重彦は「知の三馬鹿」」ってのもあったか、呉智英が引用しているテキストを読む限りでは、このようなハッタリが1970年代ぐらいまでは非常に有効だったんだろうな、と思います。
 呉智英吉本隆明「マチウ書試論」について、なんでマタイ伝と書かないのかと怒りながら、吉本隆明のテキストを引用し、リライトしています。p32-33

吉本隆明の原文)
『マチウ書の作者は、メシヤ・ジェジュをヘブライ聖書のなかのたくさんの予約から、つくりあげている。この予約は、もともと予約としてあったわけではなく、作者がヘブライ聖書を予約としてひきしぼることによって、原始キリスト教の象徴的な教祖であるメシヤ・ジェジュの人物をつくりあげたと考えることができる。』

 確かに何を言ってるかさっぱりわからない。「マチウ書」「メシヤ・ジェジュ」「ヘブライ聖書」「予約」「予約としてひきしぼる」と、どう読んでも造語と歪んだ経文のテキストにしか思えないですな。
 それはつまり、こういうことです。

呉智英によるリライト)
新約聖書マタイ伝の著者は、救世主イエスを旧約聖書の中のたくさんの予言から、作り上げている。この予言は、もともと予言としてあったわけではなく、著者が旧約聖書を予言の書としてそこから強引に抽出することによって、原始キリスト教の象徴的な教祖である救世主イエスの人物像を作り上げたと考えることができる。』

 なるほど。
 こういった造語癖について、呉智英は「補論 吉本隆明に見る「〈信〉の構造」」で、以下のように述べています。p269

吉本隆明のこうした造語癖は、小林秀雄のような衒学的な難解文趣味とは、似ていながら違っている。本文で私は、吉本は「天然」だと書いた。つまり巧んでない。しかし、「天然」は「病気」のすぐ手前である。病気は仮病でない限り、巧んでいない。吉本は天然どころか病気の領域に入っている可能性がある。そこが天然よりなお一層、信者を惹きつける。』

 こんなテキストは、さすがに吉本隆明が生きてるときには公にできなかったんだろうなあ。
 この本の単行本での刊行は2012年12月、ちくま書房からですが、吉本隆明が亡くなったのは2012年3月です。
 また、「補論 吉本隆明に見る「〈信〉の構造」」は文庫用の新稿だそうです。

校正とは別の面倒くささを山本弘『翼を持つ少女』(創元推理文庫)で考える

 山本弘『翼を持つ少女 上』(2016年4月28日発行)は、冒頭に「ビブリオバトル公式ルール」の「ルールの補足」として、以下のようなテキストがあります。

『4 全発表参加者に紹介された本の中で「どの本を一番読みたくなったか?」を基準に参加者全員で投票を行い最多票を集めたものを『チャンプ本』として決定する。』

 2016年11月の時点での、「ビブリオバトル公式ルール」の「公式ルールの詳細」は、以下のようになっています。

『4 全ての発表が終了した後に「どの本が一番読みたくなったか?」を基準とした投票を参加者全員一票で行い,最多票を集めたものを『チャンプ本』とする.』

 ずいぶん違います。

 さらに「ルールの補足」ではなく「公式ルールの詳細」になっています。
 実は、公式ルールは以下の通り改訂されています。

改訂 2014年11月7日(理事会決議)※ルールの補足のみ
改訂 2015年1月17日(理事会決議)※ルールの補足のみ
改訂 2016年2月21日(文言修正)※ルールの補足のみ
改訂 2016年8月8日(理事会決議)※ルールの補足を公式ルールの詳細と改称

 どの部分がどう改訂されているのかは、法律の文章じゃないのでよくわからない。
 ぼくに想像できるのは、かつて「全発表参加者に紹介された本の中で」云々のテキストが存在し、小説の中では多分それが正しいテキストだったんだろうなあ、ということです。
 これに関しては、以下の方法があります。

ビブリオバトルのルール」に関するテキストは、○年○月○日のものに準拠してます」とあとがきで注記として明記する

 まあ実は山本弘のこのシリーズは、今より少し前(2014年)の話なので、現在の公式のルールがどうであろうと特に問題はないのです。
 ただ、そうするとたとえば、「2014年9月6日」の天気・気温が気になるわけです。
 小説『BISビブリオバトル部 君の知らない方程式』の、ネットのテキストの中ではこう書かれています。

『九月の太陽の下、緑の芝生に覆われ、抽象的な銀色のモニュメントがそそり立つ広い敷地を、俺たちは黙々と横切って行った。すでに季節は秋だが、空気にはまだ夏の熱気がかすかに漂っている。』

 当日の天気と温度に関しては、tenki.jpのサイトでは以下のように書かれています。

『九州から関東に前線が延び、広く大気の状態が不安定に。九州から近畿は昼過ぎから雨雲が発達。滋賀県甲賀市付近で約100ミリの記録的短時間大雨。東海と関東も夕方から所々で激しい雨。真夏日地点は308と2週間ぶりに300地点超え。東京都心は6日朝にかけて久々に熱帯夜。』『最高気温31.1℃ 最低気温26.1℃』

 このことから考えると、登場人物たちは、「はっきりしない天気の下」「空気には昨夜の熱帯夜の余韻が残っている」みたいな感じなんでしょうが…そんなの気にするのは東京創元社の校正・校閲者とぼくぐらいなものです。


自分の倍の年の人の考えはわからないし、半分の年の人の考えは忘れている(機動戦士ガンダム)

 たとえば、あなたが小説を書いているとして、30歳だったとしましょう。
 物語の中に60歳の人を出そうと思っても、多分うまく書けない。既成のテンプレートをなんとかして、想像で補うしかないので、どうもその内面まではきっちり書けないはず。
 逆に15歳の人を出そうと思うと、それがもう、自分では経験あるんだけど、その時どんな感情で人と接していたか、さっぱり思い出せないんだよなあ。
 これが、40歳と20歳の人なら、多分うまく書けるかもしれない。
 機動戦士ガンダム(ファースト)が放映されたのは1979年で、その時富野由悠季は38歳。なんか微妙な年齢だなあ。
 もちろん、今の富野由悠季に若者なんか書けるわけがない。
 自分が若者だったときのことを、偽造記憶でなんとか作り込みながら書いてるだけ。
 高校生の若者には、40代ぐらいの父母と70代ぐらいの祖父母がいることに、多分なると思うんだけど、ライトノベルの作者は、父母はともかく、祖父母まではうまく書けないんじゃないかと思う。

ギャグネタは古いほうから使って行く

 こんなギャグがあるとします。

『彼は連合軍がノルマンディに上陸したという知らせを聞いたときのロンメルみたいな顔をした。』

 でもって、こんなギャグもあるとします。

『彼は巨大不明生物が鎌倉に再上陸したという知らせを聞いたときの内閣官房副長官みたいな顔をした。』

 古いほうはもう古くなりようがないので、使うときにはなるべく古いのを使う。今回の例なら前者を使う。
 これは「カエサルルビコン川を越えたという知らせを聞いたときのポンペイウスみたいな顔」でもいいかなあ。

『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』解説者と分析者のためのあとがき

 作品が完成したので、あとがきを書きました。

kakuyomu.jp 自作自註というのは面倒くさいが、やっておかないと勝手な・余計な解釈をする人もいるのでいやいややる、と三島由紀夫(だったかな、とにかくえらい作家)が言っていたので、別にえらい作家ではないんですが、その真似をします。
 この小説の元ネタは、フィリップ・K・ディックにはふたごのシスターがいた(姉か妹かは不明)、ってことと、フィリップ・K・ディックとアーシュラ・K・ル=グウィンは同じ高校に通っていた、ってことと、落語「五人廻し」です。
 ディックとル=グウィンのもう一つの共通点は、ミドルネームの「K」が何の略か、たいていの人は知らない、ということです。
 落語「五人廻し」は花魁の来ない4人の客(荒っぽい町人・変態っぽい変な人・堅物の侍・田舎者っぽい田舎者)と、花魁と遊んでいるひとりのお大尽の話です。
 もっとそもそもは、別の話・別の世界である『物語部員の生活とその意見』に出てくる現役高校生声優・松川志展(まつかわしのぶ)が、スタジオの隅で中間テストの試験勉強をする場面を考えていて(彼女はレジェンド・藤堂明音さんの「全科目トップ」という野望をくじいた人で、大学には推薦入学で行くことになっています)、この声優の人はいったいどんなアニメに出てるんだろう、と考えはじめたことによります。
『物語部員の生活とその意見』はメタフィクション(フィクションであることを意識したフィクション)なので、この『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』は、メタメタフィクションというか、メタをこじらせたようなメタフィクションになっています。
 別に前作を読まなくても、これ単独でも読めるようになっています。むしろ読むと混乱するぐらい。
 松川志展に特定のモデルはいませんが、複数の実在する声優のイメージを借りています。
 高校にも特定のモデルはありませんが、北関東の、周りが田んぼだらけのだだっ広いところにある、割と自由で中途半端な進学校、ぐらいに思っていてください。
 どちらの話にも似たような人物が出てきますが、キャラ設定を別に考えるのが面倒くさいのと、一連の物語を大きな物語にしたいという筆者の漠然とした考えがあります。ムアコックエターナル・チャンピオン方式みたいなものです。

信頼できない語り手が一人いる物語は、物語の中のすべての人物が信頼できない

 アガサ・クリスティーアクロイド殺し』のメタ構造はさまざまな発展の可能性を生みました。
 クリスティーがその小説の中でやったことは、「信頼できない語り手」をひとり設定したことです。
 でも、それだったら当然、なんでひとりだけという設定でいいのか、という話になる。
 要するに、信頼できない語り手は、作中に複数いてもいい。
 その手法は、すでに芥川龍之介が「藪の中」(1922年)で採用していました。
 ウィキペディアでは「複数の視点から同一の事象を描く内的多元焦点化」と書かれています。
 この手法で驚いたのは、小松左京「HAPPY BIRTHDAY TO……」というSF短編です。
 Aがaのつもりで言ってることが、Bにはbに聞こえる、という勘違い現象は、アンジャッシュ系と言います。

落語のオチとホラーの違い(紙入れ)

 落語「紙入れ」は、「知らぬは亭主ばかりなり」の浮気者と人妻とその旦那の話です。
 職人の浮気者は旦那の留守にあれこれやるんだけど、うっかりして自分の紙入れを浮気現場(人妻の家)に置き忘れてしまう。
 旦那は浮気者の親方にあたる者なので、どうにも困っているその男を見て、男は「実は…」と、人の話のように自分のことを話す。
 人妻は「大丈夫だよお、心配しなくったって、そんなことする人妻なんだから、ちゃんと懐に隠してあるに決まってるよ」と、自分の胸を叩く。
 旦那は「そうだよなあ、旦那はそんなことに気がつかねぇ間抜けに決まってらあ」
 と、ここでオチるのが落語のオチ。
 で、桂小南その他上方の落語ではさらに続きます。
人妻「まったく、そんな間抜けの顔、一度見てみたいものやねえ」
旦那「見たいんか…こんな顔や」
 と、最後で落語家は「こんな顔」をやる。
 どんな顔か、というのは、解釈によります。
 ぼくの判断では、このオチはホラーです。
 ジャンルとして落語ということになっている「そば清」と同じようなホラー。