砂手紙のなりゆきブログ

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ジャック・リーチャーのシリーズが読みたい

 ジャック・リーチャーというのは、イギリス(今はアメリカに居住)のミステリー作家リー・チャイルドが創作したキャラクターで、映画はトム・クルーズ主演の『アウトロー』(2012年)『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』(2016年)があります。シリーズだと9作目と18作目。
 自分もウィキペディアとかでしか内容知らないんですが、一言で言うと。

 ゴルゴ13水戸黄門と寅さんを足したみたいなキャラクターが、アメリカを舞台に活躍する話。

 主人公のジャック・リーチャーは、元米陸軍憲兵隊捜査官で、凄腕のスナイパー。
 アウトロー7箇条を、ウィキペディアを丸コピで紹介しますと、こんな感じ。

『1・職には就かない(陸軍憲兵隊の捜査官だったが、除隊後は全米を放浪)。
2・住居は持たない(徒歩やヒッチハイク、バスで移動し、流れ着いた街の安宿を転々)。
3・身分や居所を明かす物は持たない(携帯電話・免許証、クレジットカードなどは持たない)。
4・人とは絶対につながらない(恋人・家族・友人など面倒な人間関係は必要なし。女も一夜限り)。
5・証拠は信じない(警察はまったく信用せず、証拠も信じない)。
6・法律は関係ない(自分に絶対的な自信を持ち、己が定めたルールこそが法)。
7・悪は決して許さない(悪を見過ごすことができず、正義のためには手段を選ばない)。』

 小説はほぼ毎年、1997年から21作が刊行されてますが、翻訳は全部出ているわけではない。
 翻訳の出版元が講談社なせいですかね。あとアメリカを放浪する話なんで、日本人にはあまり馴染みないのかも。あと熱心な翻訳者がいない、みたいな。昔なら東京創元社が率先して出して、片っ端に品切れ重版未定リストにしていたようなシリーズだな。
 かと言って英語で読みたいほど面白そうか、と聞かれると、どうにも首をひねるしかない。
 比較的入手が容易そうな奴を何冊か読んでみてから考えよう。

ジョン・フォードと黒澤明監督のいいところは、役者のリアクションをちゃんと撮っているところ(黄色いリボン)

 1980年代の、MTV世代の監督が映画を撮りはじめるようになってから、映画は映像的につまらなくなったと思います。
 ミュージック・クリップって、役者(というかまあ、パフォーマー)のアクションを撮るのが主で、そういうのばっかり撮ってるとリアクションなんてどうでもいい、みたいな感じになるのかな、とか思う。
 リアクションにこだわりすぎた役者の演技(アクターズ・スタジオ系のメソッド演技法)は、マリリン・モンローを筆頭にいろいろな人間を病に追い込みましたが、映画監督の演出としてのリアクションの重視(話している人ではなく、話されている人を対象に映画を撮る技法)も生んで、映像の美しさと演出のうまさと話のつまらなさがアメリカン・ニューシネマの素晴らしい特徴です。
 ジョン・フォードジョン・ウェインについて、大林宣彦は『いつか見た映画館』(2016年、七つ森書館)という上下巻の素晴らしく厚くて熱くて面白い映画紹介本の、映画『黄色いリボン』(1949年)に関連して、以下のようなことを言っています。上巻のP146。

ジョン・ウェインの演技って、実はそのころのハリウッドスターのアクション演技ではないんです。リアクション演技を彼は試みていたんですね。「俺はこうだ」、というアクションではなく、「あなたがそうならば、私はこう応える」。これが実は現代の映画の中に生きている、若い人たちが盛んに求める演技のあり方なんです。
 そうするとほら、ジョン・ウェインは実はこの昔の映画のなかで、極めて現代的な演技を先取りしていたとも言える。
 自らの意志でアクション(演技)するシアター派の名優ヘンリー・フォンダが、のちにフォードの演出とぶつかって喧嘩となり、遂には生涯フォードと袂を別かったのと対照的に、生涯フォードに寄り添って名演を残すと共に、フォード芸術の醸造に大いに寄与したウェインの功績は、その相手に正直に反応する「リアクション」の故であったのだろうと、いまにして僕らは納得するのですね。』

 さて、あなたの感想はいかがでしょう。
 もう何回も見ているはずの『黄色いリボン』その他のジョン・ウェインの映画、ジョン・フォードの映画をまた見たくなった?
 大林宣彦の『いつか見た映画館』を読みたくなった?
 この『いつか見た映画館』というのは、昔の映画に関するとことん面白い映画紹介で、こんなに面白い映画の本なんて最近は出会ったことなかったぐらい。

読解力と(長い)小説の問題に関する私感

 小説のほうに熱中しすぎてて、ブログの更新をひと月ぐらいサボってしまいました。とりあえず、小説のほうは毎日1500字ぐらいは書いてるんですが。
 予定ではあと2章ぐらい書いておしまいの予定なので、2月の中頃で終わります。

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 昔も今も、若者も老人も、実は日本人には長い文章(特に物語)は読めません。
 方丈記徒然草は言うまでもなく、源氏物語平家物語も、長い物語と言っても実は「ほどほどの長さで一区切りされている、同一キャラクターが出てくる物語」です。
 そして、日本語の読解力は、現代国語の試験問題のように、長い文章を読むことではなく、長くても二千字程度の、切り取られたテキストを読むことによってはかられます。要するにそれ以上長いテキストを読むことは趣味です。
 ネット時代になって、その傾向はさらに強くなっているんじゃないかと思います。
 まず、書くほうが長いテキストが書けない。
 そして、読むほうも長いテキストを読む必要を感じない。
 ぼくのブログでも、ひとつの記事はせいぜい二千字程度で、好きなところ・面白そうなところだけ読んで、過去のテキストを全部読む必要はない。そんなことする人はぼくの熱心すぎる読者か、ぼくの性癖を調べたいネットストーカーぐらいなもの。
 最後に、テキストの長さと回る金は関係ない。二千字と五百字で回る金が同じなら、みんな情報量を多少削っても五百字のテキストにする。二万字のテキストだって二千字にする。
 何十巻もある、長い文章(物語)を読むのは、ライトノベルの読者ぐらいなものでしょう。

小説を書いていて不思議なのは、伏線回収が実にうまくいくところ

 ちゃんとしたラブコメを書きたいと思ってはじめた話ですが、ラストのところを先に書いて、書き足してあまりの感動作品になってしまったので(多分来年の2月までには完結すると思う)、我ながらどうしようかと思う。だいたいそういう「傑作」感は作者の幻想というところに相場は決まってるから、まあどうなるか見て(読んで)いてください。

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 不思議なのは、自分の頭の中で、あ、この道具(小道具)は、ラストのところでこう使うんだ、なんて、書いた(出した)ときは全然考えてなかったのに、ちゃんときれいに使われているところ。
 たとえば、もう1話のところで、自転車で公園に行く主人公と、横断歩道を肉まんを持って走って渡る女の子がいるんだけど、「自転車」と「肉まん」がすでにラストの伏線になってて、ちゃんと回収するのよね(現段階ではラフ書きの雑なテキストの中では)。でも、1話書いたときにはそんなこと考えてなかったんだ。
 女の子が買った肉まんはふたつ。コンビニと自宅の往復の運動量で、ひとつは使われる、というのがその子の主張です。
 今ラフ書きで書いてるところは、主人公が幼女体化して、地域の公衆浴場(もう「銭湯」というものはない)に行ってあれこれするのと、主人公(王子)の名言集。どちらも素晴らしく馬鹿馬鹿しいものになるはず。

映画『この世界の片隅に』(2016年)で残念なところ

(以下ネタバラあるので注意)
 劇場公開のアニメ『この世界の片隅に』(2016年)は、広島で生まれ呉に嫁いだ、平凡で少しトロいけど絵を描くのが大好きな女性・浦野すず(嫁いだ後は北條すず)の、戦前から戦後にかけての、どんどんつらくなるけど最後には少し光が見える話です。
 死や喪失は暗示的にしか語られないし、呉の対空射撃や燃える町や沈められた軍艦は泣けるほど美しいので、防空壕で受ける空襲や路上での戦闘機からの機銃掃射は余計にすげぇ怖い。
 さらに、広島に原爆が落とされたときの、呉に住む主人公たちが「一体何が起きたんだ!」という感じ(この、家がガタガタと揺れて、西のほうに巨大な雲が浮かんで、ラジオ放送が何も伝えない、という感じは、東日本大震災の被災地から離れたところに住んでいた人のリアルにも通じるものがあります)とか、終戦の天皇陛下のラジオを聞いて「おれたちはまだ戦える!」と立ち上がって怒る主人公とか、実に気持ちが、澄んだ水の中の水晶のかけらのように伝わります。
 この映画で思い出したものはふたつあります。
 ひとつは、やはり絵が好きな少女・梶原空(平和な日本の片田舎に住んでます)とその所属する美術部を扱った『スケッチブック ~full color's~』(2007年)です。
 もうひとつは、イラク戦争で名を馳せたアメリカ人のスナイパー(狙撃手)を主人公にしたクリント・イーストウッド監督の映画『アメリカン・スナイパー』(2015年)です。
 特に『アメリカン・スナイパー』は、劇伴の使われかた、というかむしろ、使われていない感じが実に思い出されます。気分を盛り上げたり盛り下げたりする音楽の使いかたじゃないんだよね。あと、戦争とは何か、みたいなことについて考えさせられるところ。問題は、この映画におけるイラク人のことを考えたら、戦争中の日本人なんてまだマシかも、ぐらいに思えてしまうところ。米兵と口を聞いたら片手を同国人に切り落とされ、強制移住の言うことを聞かなかったら米兵に射殺されるんだから(ここらへんはちょっと話を盛ってます)。
 で、『この世界の片隅に』で残念なのはエンドロールで語られる、薄幸な少女・白木リンと浦野すずの物語。
 このふたりに関しては、まどほむと同じぐらいの勢いでリンすずの薄い本が出てもおかしくないぐらいなんだけど、監督はそれ全部プロデューサーの指示で削って、すずが作った(描いた)物語、という扱いにしてしまいました。
 それだと、本編の物語の濃さが弱まって、「これは物語です」という、全体の嘘の密度が濃くなるんですよね、って、ここらへんはうまくぼくの言いたいことがわかるかどうか不明ですが。要するに、「いい話だけど、やっぱお話だよね」って感じになる。
 幸いなことに、けっこう映画の興行収入が悪くないんで、エンドロールの物語も、ちゃんとした物語として(物語の中の物語じゃなくて)作られる可能性が高いようです。

「君の名は。」と聞かれても、友達であればあるほど本当の名前を教えられない未来

 現在執筆中の小説は近未来(だいたい十年以内の未来)の学園ラブコメですが、そこでは現在の状況を加味して、以下のような恐怖の未来を想定しています。

・校内にはいたるところに監視カメラ(防犯カメラ)がある
・校内では生徒の携帯端末による撮影は一切禁止
・クラスメートには本名(真名)ではなく、ハンドル(偽名)しか使わせない。それも「トモさん」「ケイト」とかいったような、検索しにくいような偽名が奨励される
・親しい友達同士であればあるほど、お互いの相手の本名(真名)と住所を知らない

 この世界では、友達を作らないのが当たり前ということになっています。作るのは仲間で、知ってるのはハンドルとメールアドレスだけ。
 相手の距離が近すぎる(友情が濃すぎる)と、敵に回った場合は社会的に殺される、というのは、リベンジポルノという語が現在すでにもう定着しているぐらいなので、近未来では当然のことになります。
 こんな世界でのラブストーリーでは、お互いが元カノ・元カレになったらどうなるのか。
 自分の真名を絶対に教えてはいけない、という世界は、『ゲド戦記』みたいなもんですかね。

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文庫本一冊ぐらいの長さの小説を一つ仕上げるのにかかる時間は180時間ぐらい

 どうも、秋アニメ(という設定)の話はうまく行かないので、それと関係する別の話を書きはじめました。要するに冬アニメ(という設定)。1作目は春のそよ風を感じながら書いた春アニメ、2作目はなかなか眠れない夜の暑さの下で書いた夏アニメで、これが3作目の予定。

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 前の話がなぜうまく行かなかったかというと、話の説明部分を省略して、コードウェイナー・スミスみたいに書きたかったからで、とりあえず400年分の歴史と数百語の用語集を作ったけど、どうしようかと思ってしまうのです。
 今まで作った話は、だいたい3か月、毎日実質2時間ぐらいかけて(本当はダラダラと検索したり資料本を読んだりしてます)、90話ぐらいだから、みっちり詰めて本気で書けば180時間、10日ぐらいで文庫本一冊楽勝だぜ、ははは、と、くだらない計算をしてみる。
 物語を書くことは、自分の命の一部を削って、人の命の一部(読書時間)を奪うことです。
 ぼくが作った物語を、読者が2時間で読むとするなら、ぼくの物語の読者は90人いれば多分いい、ということになります。