色の名前を英語と日本語で合わせる
だんだん難しくなるわけですが。
まず、
緑(みどり)=green
黄色(きいろ)=yellow
と、このふたつは「り」「r」、「ろ」「lo」があるのでだいたい合わせられる。rとlは違いますけど、気にしない。
肝心の、
赤(あか)=red
青(あお)=blue
が合わないんだよね。
幸いなことに、今は印刷用語を中心に、別の英語の言いかたになっています。
つまり、
赤(あか)=magenta
青(あお)=cyan
と、これなら「あ」「a」の音がどちらにもある。
また、これも音読みなら、
緑(りょく)
黄(おう)
赤(しゃく)
青(せい)
と、赤の音を合わせることができます。
ただ、基本的にヨコのもの(英語)は、どんなに頑張ってもうまくタテのもの(日本語)にはならないと思ったほうがいい。
四季(春夏秋冬)の音を英語と日本語で合わせる
自分のブログでは、原則として英語を使わないようにしています(英語テキストだともう、それだけで読む気をなくすんじゃないかと思うんで)が、今日は単語なんで許してください。
翻訳として気になるのは、「音」が合っているかどうかです。難しく考えないで、英語に「ア」っぽい音があったら、日本語で「あ」の音がある語を選ぶ、ぐらいなところ。
殺人事件はマーダー・ケース。ね、「さ」と「マ」、「け」と「ケ」が合ってますよね。そこがいいところです。
で、春夏秋冬を考えると、こんな感じになります。
春(はる)=spring
夏(なつ)=summer
秋(あき)=autumn(fall)
冬(ふゆ)=winter
まあ、これも半分入ってます。「る」と「ri」、「な」と「su」、でもって秋と冬には入ってない。
音読みにすると3つ入ります。「春(しゅん)」と「s」、「夏(か)」と「su」、秋には入ってなくて、「冬(とう)」と「ter」。
どうにも秋という語と英語とは相性が悪いんだなあ。
夏はサンマで秋、秋はオータム(おーさむ)だから冬、という漫才がありました。
で、これが色の場合だとどうなるか、という話はまた別の日にします。
一人称が「おれ」の『ロング・グッドバイ』が読みたい(レイモンド・チャンドラー)
実はレイモンド・チャンドラーは、1959年に亡くなってますので、作品はパブリック・ドメインという扱いになっています。要するに、誰がどのように翻訳してもいい。おれが日本語で翻訳してもいい。
1963年までに亡くなった人はだいたいそういう扱いです。
そういう作家はほかにも、フォークナー、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ハメットなどがいます。つまりだいたい、村上春樹が訳しているようなものは別に違う誰かが勝手に翻訳しても問題はない。
ということで、誰か『ロング・グッドバイ』をウェブで新しく翻訳してくれる人、いないかなあ。いなかったらおれがやっちゃうよ? 一人称は当然「おれ」です。
あるいは、さらに優雅で感傷的に、「ぼく(僕)」という一人称で訳してみるとか、さ。
ただ、自分(ああ、この一人称は落ちつくのです)が訳すと、まずタイトルの「音」がうまく日本語にならない。
つまり「ロング」だと「オ」の音、「グッドバイ」だと「ウ」「ア」の音を入れて訳したくなるんだけど、無理なんですね。「ながい・おわかれ」だと、「おわかれ」のほうに「ア」の音があるんだけど、「オ」の音がある、「長い」の類義語で、一般的に使われてる語が思いつかない。比較的近いのは「遠い」だろうけど、それは誤訳すれすれ。
無理して日本語にするなら、『遠いさよなら(さよなら)』ですかね。
この、日本語の「音」に関する話は、今月は少し続くかもしれないのです。
関連過去記事:
ジャック・リーチャーのシリーズが読みたい
ジャック・リーチャーというのは、イギリス(今はアメリカに居住)のミステリー作家リー・チャイルドが創作したキャラクターで、映画はトム・クルーズ主演の『アウトロー』(2012年)『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』(2016年)があります。シリーズだと9作目と18作目。
自分もウィキペディアとかでしか内容知らないんですが、一言で言うと。
ゴルゴ13と水戸黄門と寅さんを足したみたいなキャラクターが、アメリカを舞台に活躍する話。
主人公のジャック・リーチャーは、元米陸軍憲兵隊捜査官で、凄腕のスナイパー。
アウトロー7箇条を、ウィキペディアを丸コピで紹介しますと、こんな感じ。
『1・職には就かない(陸軍憲兵隊の捜査官だったが、除隊後は全米を放浪)。
2・住居は持たない(徒歩やヒッチハイク、バスで移動し、流れ着いた街の安宿を転々)。
3・身分や居所を明かす物は持たない(携帯電話・免許証、クレジットカードなどは持たない)。
4・人とは絶対につながらない(恋人・家族・友人など面倒な人間関係は必要なし。女も一夜限り)。
5・証拠は信じない(警察はまったく信用せず、証拠も信じない)。
6・法律は関係ない(自分に絶対的な自信を持ち、己が定めたルールこそが法)。
7・悪は決して許さない(悪を見過ごすことができず、正義のためには手段を選ばない)。』
小説はほぼ毎年、1997年から21作が刊行されてますが、翻訳は全部出ているわけではない。
翻訳の出版元が講談社なせいですかね。あとアメリカを放浪する話なんで、日本人にはあまり馴染みないのかも。あと熱心な翻訳者がいない、みたいな。昔なら東京創元社が率先して出して、片っ端に品切れ重版未定リストにしていたようなシリーズだな。
かと言って英語で読みたいほど面白そうか、と聞かれると、どうにも首をひねるしかない。
比較的入手が容易そうな奴を何冊か読んでみてから考えよう。
ジョン・フォードと黒澤明監督のいいところは、役者のリアクションをちゃんと撮っているところ(黄色いリボン)
1980年代の、MTV世代の監督が映画を撮りはじめるようになってから、映画は映像的につまらなくなったと思います。
ミュージック・クリップって、役者(というかまあ、パフォーマー)のアクションを撮るのが主で、そういうのばっかり撮ってるとリアクションなんてどうでもいい、みたいな感じになるのかな、とか思う。
リアクションにこだわりすぎた役者の演技(アクターズ・スタジオ系のメソッド演技法)は、マリリン・モンローを筆頭にいろいろな人間を病に追い込みましたが、映画監督の演出としてのリアクションの重視(話している人ではなく、話されている人を対象に映画を撮る技法)も生んで、映像の美しさと演出のうまさと話のつまらなさがアメリカン・ニューシネマの素晴らしい特徴です。
ジョン・フォードとジョン・ウェインについて、大林宣彦は『いつか見た映画館』(2016年、七つ森書館)という上下巻の素晴らしく厚くて熱くて面白い映画紹介本の、映画『黄色いリボン』(1949年)に関連して、以下のようなことを言っています。上巻のP146。
『ジョン・ウェインの演技って、実はそのころのハリウッドスターのアクション演技ではないんです。リアクション演技を彼は試みていたんですね。「俺はこうだ」、というアクションではなく、「あなたがそうならば、私はこう応える」。これが実は現代の映画の中に生きている、若い人たちが盛んに求める演技のあり方なんです。
そうするとほら、ジョン・ウェインは実はこの昔の映画のなかで、極めて現代的な演技を先取りしていたとも言える。
自らの意志でアクション(演技)するシアター派の名優ヘンリー・フォンダが、のちにフォードの演出とぶつかって喧嘩となり、遂には生涯フォードと袂を別かったのと対照的に、生涯フォードに寄り添って名演を残すと共に、フォード芸術の醸造に大いに寄与したウェインの功績は、その相手に正直に反応する「リアクション」の故であったのだろうと、いまにして僕らは納得するのですね。』
さて、あなたの感想はいかがでしょう。
もう何回も見ているはずの『黄色いリボン』その他のジョン・ウェインの映画、ジョン・フォードの映画をまた見たくなった?
大林宣彦の『いつか見た映画館』を読みたくなった?
この『いつか見た映画館』というのは、昔の映画に関するとことん面白い映画紹介で、こんなに面白い映画の本なんて最近は出会ったことなかったぐらい。
読解力と(長い)小説の問題に関する私感
小説のほうに熱中しすぎてて、ブログの更新をひと月ぐらいサボってしまいました。とりあえず、小説のほうは毎日1500字ぐらいは書いてるんですが。
予定ではあと2章ぐらい書いておしまいの予定なので、2月の中頃で終わります。
昔も今も、若者も老人も、実は日本人には長い文章(特に物語)は読めません。
方丈記・徒然草は言うまでもなく、源氏物語も平家物語も、長い物語と言っても実は「ほどほどの長さで一区切りされている、同一キャラクターが出てくる物語」です。
そして、日本語の読解力は、現代国語の試験問題のように、長い文章を読むことではなく、長くても二千字程度の、切り取られたテキストを読むことによってはかられます。要するにそれ以上長いテキストを読むことは趣味です。
ネット時代になって、その傾向はさらに強くなっているんじゃないかと思います。
まず、書くほうが長いテキストが書けない。
そして、読むほうも長いテキストを読む必要を感じない。
ぼくのブログでも、ひとつの記事はせいぜい二千字程度で、好きなところ・面白そうなところだけ読んで、過去のテキストを全部読む必要はない。そんなことする人はぼくの熱心すぎる読者か、ぼくの性癖を調べたいネットストーカーぐらいなもの。
最後に、テキストの長さと回る金は関係ない。二千字と五百字で回る金が同じなら、みんな情報量を多少削っても五百字のテキストにする。二万字のテキストだって二千字にする。
何十巻もある、長い文章(物語)を読むのは、ライトノベルの読者ぐらいなものでしょう。
小説を書いていて不思議なのは、伏線回収が実にうまくいくところ
ちゃんとしたラブコメを書きたいと思ってはじめた話ですが、ラストのところを先に書いて、書き足してあまりの感動作品になってしまったので(多分来年の2月までには完結すると思う)、我ながらどうしようかと思う。だいたいそういう「傑作」感は作者の幻想というところに相場は決まってるから、まあどうなるか見て(読んで)いてください。
不思議なのは、自分の頭の中で、あ、この道具(小道具)は、ラストのところでこう使うんだ、なんて、書いた(出した)ときは全然考えてなかったのに、ちゃんときれいに使われているところ。
たとえば、もう1話のところで、自転車で公園に行く主人公と、横断歩道を肉まんを持って走って渡る女の子がいるんだけど、「自転車」と「肉まん」がすでにラストの伏線になってて、ちゃんと回収するのよね(現段階ではラフ書きの雑なテキストの中では)。でも、1話書いたときにはそんなこと考えてなかったんだ。
女の子が買った肉まんはふたつ。コンビニと自宅の往復の運動量で、ひとつは使われる、というのがその子の主張です。
今ラフ書きで書いてるところは、主人公が幼女体化して、地域の公衆浴場(もう「銭湯」というものはない)に行ってあれこれするのと、主人公(王子)の名言集。どちらも素晴らしく馬鹿馬鹿しいものになるはず。