砂手紙のなりゆきブログ

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やっと物語がひとつできました(解説者と分析者のためのあとがき)

 途中どうもビールばっかり飲んでたせいで、完成がだいぶ遅れましたが、やっと終わりましたので、「解説者と分析者のためのあとがき」を転載します。

kakuyomu.jp

 書き終わってから半日ぐらいは、これは自分が書いた物語の中でも最高、とか思いますが、書き始めのときはいつも、こんなんでうまくいくんだろうか、と考えてしまうのです。だいたい自分の物語は、作者がひどい結末をつけて、作中の登場人物がもうすこしましな結末をつけることになっています。ひどい結末だけどハッピーエンドに見える技術は、多分カート・ヴォネガットあたりから来ているんじゃないかな。自分の気持ちは、お腹に矢が刺さっている人が「痛くない?」って聞かれたときの答と同じです。要するに「笑ったときだけ」。
 そもそもは、『おれの双子の妹はひとりだが6人いる』のもうひとつの結末を書いたミトラさんで、彼女はいったいどんな高校生になるんだろう、と妄想を膨らませたところからはじまります。それから、タイガーな女子とドラゴンな男子の物語(アニメ)を見て、ああいいなあ、こういう話書きたいな、と思って書いてみたんだけど、自分が恋愛脳になりきれないというのがわかったため、全面的にボツにして、ヒロインをいつも通りすこし変な子にしてみました。というか前の2作より変かも。
 あと、自分の話は、その話を書いているときに見たり読んだりしてたものの影響が、同じ時代の人には丸わかり(逆に言うと、すこし時代が経つとわからなくなる)、という作りになっています。たとえば、自分ではうまく(変な)ふうに書けたと思っている、ミトラさんのMC(第51話)なんかは、映画『デッドプール』の影響下、みたいな。
 まあ結果的には、最後のあの一言が言いたいために書いた話、になりました。
 なお、国定節夫(仮)が生きる異世界ファンタジーのほうは、執筆が非常に難航中ですが、そのうちなんとかなるだろう。

麻生吉郎という編集者

 阿川弘之は、「一編集者の死」という随筆で、次のように書いています。(初出「波」1973(昭和48)年9月号。引用は阿川弘之全集16巻より、かなづかいは引用のまま)

『麻生吉郎といふ一人の編集者が、若くして亡くなつた。
(中略)
 彼は「週刊新潮」のデスクで、出版社系週刊誌の嚆矢となつたこの雑誌の、創刊に参画した一人である。
(中略)
 九州の麻生財閥の一族だつたから、別府かどこかの持ち土地で、温泉の湯気がポッと上る度に麻生のふところには金がころがりこむといふ伝説があつて、
「あいつはいいんだ」
 と、私たちは金銭の上でも全く対等のつき合ひをしていた。
(中略)
 文学作品では、柴田錬三郎の「眠狂四郎」。「狂四郎」があれだけ長期にわたつて書きつがれたのは、柴田氏の麻生に対する並々ならぬ親愛の情からで、二人は作家と編集者といふ間柄をはるかに越えてゐた。」

 名前からおわかりのとおり、麻生吉郎は吉田茂麻生太郎・元総理の一族の者で、当然ながらSF翻訳家・作家の野田宏一郎とも親戚です。でも、その人についてネットで言及している編集者は、元集英社の島地勝彦ぐらいですね。
 麻生吉郎は、売れっ子でも何でもなかった当時の柴田錬三郎にいきなり週刊誌連載を依頼し、眠狂四郎という主人公の名前と、円月殺法という剣法を考えさせました。
 考えた人の名前は残るけど、考えさせた人の名前は残らないものですなあ。
 森鴎外に「舞姫」を書かせた人ぐらいはわかりますけどね(民友社社長の徳富蘇峰)。じゃあ、田山花袋に「布団」を書かせた人(編集者)は誰でしょう。江戸川乱歩に『怪人二十面相』を書かせた人、ドイルにホームズを書かせた人は。続きを書いてください、と言った人は。

赤ん坊と死体の持ち方の違い(お姫様だっこ)

 ミケランジェロの有名な彫刻「ピエタ」は、十字架からおろされたキリストを抱く聖母マリアの像ですが、この像は向かって左側、つまりマリアの右腕のほうに頭があります。
 赤ちゃんを抱いた・育てたことのあるような人は、なんか違うな、と思います。
 赤ちゃんは、左手に頭が来るように持つんですよね。
 それはなぜかというと、右手であれこれ、お母さんがなにかすることができるから。
 心臓の鼓動を聞かせると赤ちゃんが落ち着く、という俗説もあります。
 キリストはもう死んでいるので、マリアにはしてあげることはない。でもって上半身のほうが重たいから右腕に頭を乗せる。
 でもって困っちゃう(考えちゃう)のは、お姫様だっこを王子様がやる場合は、どちらの手を使えばいいか、ってことです。
 これが、いくら類似のものを見ても結論が出せないんだなあ。
 たとえば、『大アマゾンの半魚人』(1954年)だと、半魚人の右腕に女性の頭。
 それが『プラン9・フロム・アウタースペース』では、怪人の左腕に女性の頭。
 これは、どちらも気を失っている女性だから、多分死体と同じ持ちかたのほうがいいと思うんだけど、どうも女性の側からすると、頭を左腕で持ってもらったほうがいいと思うんだよね。
 それだと、そのままベッドに連れていかれたときに、女性は男性の左側になって都合がいい。どうして都合がいいのかは、あなたがオトナならお察しください。
 シチュエーション的に、死体・赤ちゃん・気絶した美女・気絶していない美女では扱いが違う気がする。
 あと、お姫様だっことは言っても、抱かれるのが女性でない場合もあるのは、BLとか見たり読んだりしているとわかる。

落語「芝浜」と「火焔太鼓」の物語の奥づけ

 落語「芝浜」は、飲んだくれの魚屋が早起きをして浜で金の入った財布を拾う話です。
 しかし考えてみると、その財布ってどこから出てきたんでしょうかね。海に落とした人がいるわけで、そこらへんの物語については謎とその合理的な解釈があります。
 つまり、船で旅をしていた商人が、海難にあって船が沈没して溺れ死に、財布だけが芝浜にあがった。
 そうすると、嵐から数日後の芝浜、という風景が、物語を語る側の人間に添付される(落語家の描写として必要になる)ことになります。
 また、落語「火焔太鼓」は、古い太鼓を殿様に売って300両を手に入れる道具屋の話です。
 この太鼓は、「世にふたつとない名器」ではなくて「世にふたつという名器」なんですね。
 つまり、これはどういうことかというと、ふたつセットになっている太鼓、という意味です。
 さてそうなると、もうひとつの火焔太鼓はどうなっちゃったのか気になりますよね。
 それで物語を作れ、と言われて作るのが、物語部員(仮)の腕の見せどころであります。
 そのうち考えよう。

ふりがな(ルビ)のつけかたにはふたつの方法がある(ゴブリンスレイヤー)

 ライトノベル系の文庫は、普通の文庫よりふりがな(ルビ)が余計についています。どういう漢字にふりがなをつけるのかは、どうもよくわからないけど、各社・各ブランドで決まってるんだろうな。
 それはともかく、ふりがな(ルビ)をつける場合、ふたつの方法があります。「右上」につけるか、「真ん中」につけるか、です。
 たとえば、「河豚」って漢字に「ふぐ」ってルビをつける場合、
1・右上法 「ふ(+半字アキ)/ぐ(+半字アキ)」
2・真ん中法 「(4分の1字アキ+)ふ(+4分の1字アキ)/(4分の1字アキ+)ぐ(+4分の1字アキ)」
 たとえば、「決別」に「わかれ」のルビの場合は、
1・右上法 「わか/れ(+半字アキ)」
2・真ん中法 「わ(+8分の1字アキ)/(8分の1字アキ+)か(+8分の1字アキ)/(8分の1字アキ)れ」
 となります。
 つまり、真ん中法だと、「わ」と「か」、「か」と「れ」の間は4分の1字分アキになります。
 まあ多分ここらへんは、比較的機械的にできるから問題ない。
 地名となると面倒ですな。
 たとえば、「神楽坂」だと「かぐら」と「ざか」でルビをつけないといけない。
 右上法だと「かぐ/らざ/か(+半字アキ)」でもだいたい大丈夫。
 ルビが3字になるとどうやるかというと、漢字の上下に4分の1字分の空白を作ります。
 たとえば、「龍」に「りゆう」ってルビをつける場合は、漢字のところを「(4分の1字アキ+)龍(+4分の1字アキ)」にします。
 それが「ドラゴン」というルビなら、漢字の上下のアキは半字分の空白になります。
 割と簡単そうでしょ。でもこれ、漢字の意味を考えて職人が手でコツコツやらないといけないのもありそうなんだよね。
 たとえば「不可触領域」。
 ずぼらにやっていいなら「ふか/しよ/くり/よう/いき」で全然問題はないんですよ。角川のスニーカー文庫だと、それに近いルビにしているのもあります。
 でもってびっくりしたのは、GA文庫(SBクリエイティブ)の『ゴブリンスレイヤー』(蝸牛くも、2016年)。
 第一章冒頭5行、ルビの部分をカッコで示します。

『その男は反吐(へど)が出るような戦いを終え、息の根を止めたゴブリンどもの屍(しかばね)を蹂躙(じゅうりん)する。
 薄汚れた鉄兜(てつかぶと)と革鎧(かわよろい)、鎖帷子(くさりかたびら)を纏(まと)った全身は、怪物の血潮(ちしお)で赤黒く染(そ)まっていた。
 使い込まれて傷だらけの小盾を括(くく)りつけた左手には、赤々と燃える松明(たいまつ)。
 空(から)の右手が、踏み付け抑えた死骸(しがい)の頭蓋(ずがい)から、突き立った剣を無造作に引き抜く。
 脳漿(のうしょう)をべったりと纏わせた、あまりにも中途半端(ちゅうとはんぱ)な長さの、安っぽい作りの長剣。』

 この本は、真ん中法でルビがついています。で、「屍」の場合は上下に半字分の空白、「蹂躙」の場合は「蹂」の字の上下に4分の1字分の空白がつきます。
 で、注意したいのは、「鉄兜」の場合は当然「兜」の字の上下に空白をつけるんですが、「革鎧」も同じようにやると、そのあとが「、(読点)」なんで実にかっこ悪くなる。だから「鎧」の上の部分に半字分の空白を作って、「鎧」と「、」の間には空白を作らない。
 つまり、「蹂躙」「鉄兜」「革鎧」のルビの技法が全部違う。唖然。
 こんなの、別に「蹂躙」なんかは「じゆ/うり」ってルビにして、はみ出した「ん」を「する」の「す」の部分に半分つけておいても読む側には問題ないんですよね。
 でもって、「中途半端」は、「中途」と「半端」に分けてルビしてる。
 すごい。
 なお、こんなことを知ってたり気にしたりしていても、ライトノベルを読む速度が遅くなるだけですが、自分のこの記事を読んだあなたは多分、気にしはじめるんだろうなあ。
 ざまあみろ、みたいな。
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壁抜け撮影法に意味はあるのかどうか(ロック・ミー・ハムレット!)

 三谷幸喜和田誠の、映画に関するていねいな対談本『これもまた別の話』(1999年、キネマ旬報社)の中で、ふたりは映画『カサブランカ』(1942年)のあるショットについて言及しています。p363-364

三谷「リックが事務所に入って来るところ、ワンカットで撮ってますよね。あれは、カメラが壁をすり抜けてるのか、そういう作りの家なのかがよく分からなかったんですけど」
和田「人物がドアを抜けて部屋に入る。こちらから撮ってるから当然人物は壁の向こうに見えなくなるはずなんだけど、カメラが移動するとそのまま部屋に入っちゃう。セットじゃなきゃできない。昔よくあったやり方です」
三谷「今はあまり見ないですね、こういうの」
和田「僕は「麻雀放浪記」で一回やりましたよ」
三谷「どういう効果があるんですか」
和田「……特にないんだけど(笑)」

 確かに気がつかなかったけれど、昔はそういう映画あった気がするなあ。
 最近だと、『ロック・ミー・ハムレット!』(2008年)で使われてました。
 演劇の練習する場を奪われたダメ先生とその生徒が、体育館を利用するときに、カメラが先生の動きにあわせて外から入口の壁を通って、建物の中に入るの。
 でもそのあと、先生は体育館は使用禁止だ、ってことで鍵をかけられちゃって入れなくなるんだよね。
 だったら、カメラが通ったところを使って入れよ、と思うんだけど、これはコメディ映画ではあってもマルクス兄弟的ナンセンス・メタ映画ではないので、そんなことはしない。

「と」「りと」が多すぎる文章(神隠しの森)

 集英社オレンジ文庫『神隠しの森』(梨沙、2016年)は、ジャンル的に普通の小説とライトノベルの中間ぐらいに位置するライト文芸的な物語で、田舎を舞台にしたホラー、と言えばいいんですかね。
 内容的には特にどうということはないんですが、文章がものすごく個人的にひっかかって困った。具体的には「と」「りと」が多すぎてすごく読みにくい。
 小説の冒頭、第一章「聞こえない声」の2ページ分から拾ってみます。

『ひっそり【と】横たわる荒魂村
どっしり【と】した古い日本家屋
青々【と】葉を揺らす田畑
雑草をせっせ【と】刈っていた
黒縁眼鏡をきらり【と】光らせる
甘い果汁がぽたぽた【と】
ぷっ【と】種を吐き出す』

 …どんなもんですかね。
 人にはある程度書きグセというものがあって、たとえば自分なら「という」「ちょっと(少し)」という語がちょっと(少し)多めだと思うんですが、そういうのって言われないとなかなかわからない(気づかない)ものなんですよね。
 多少の書きグセなら、読んでて引っかかることはない自分でも、これはもう、自分の感性が全力で、これ苦手、と叫んでしまうのでどうにもこうにも。
 なお、編集者はそういうのに口をはさむなんてことはめったにありません。
 そりゃもう、ねぇ、古今亭志ん朝がいくら「ねぇ」って話グセを入れても、席亭が(多分)何も言わないのと似たようなもの。
 口をはさめるのは「師匠」ぐらいなんだけど、だいたいは小説家に師匠はいない。新人賞でデビューした人だと、最初の編集者とか、新人賞審査委員の先輩作家とかはいるかな。
 ああ、読者は適当なことを適当な場所で言えるんだっけか。

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