砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

緩く教えて・時計の中の「殻竿」って何?

 最近は古今東西のアンソロジー(短編集)をごちゃまぜにしながら読んでます。
 その中の一冊にあったのが『アザー・エデン』(エヴァンズ&ホールドストック・編、早川書房、1989年)という本。イギリスSF傑作選というタイトルのとおり、(ほぼ)イギリスの作家の作品を集めたアンソロジーで、訳者も複数なので、あー、この翻訳者はこんなふうに漢字・ひらがなを使いわけてるんだ、って、どうでもいいことも楽しめます。
 どうして浅倉久志の訳が読みやすいかって、その理由のひとつが、だいたいひらがなにしてる、ってところにあるんだけど、ほかの訳者は「かれ」なのに、浅倉久志の場合は「彼」だったりして。本当にどうでもいいことですね。
 で、どうにもこうにも謎の用語が出てきて困ったのが「アミールの時計」(イアン・ワトスン大森望・訳)の以下の部分。

『時計がひとつの種から次の種へと移行しても、基本的なデザイン----噛みあった歯車、溝のついた円盤、殻竿、一対の巻き胴----は、変わらない』(本文P104)

 ……殻竿って何? あと巻き胴も。
 自分が知ってる殻竿はスネイルで、これはなんて言えばいいんだろうな、柄つき棍棒? ウィキペディアに「スネイル」で載ってるからあとで見てみてください。そんなものが時計(のデザイン)と関係あるとはとても思えない。
 原書も数百円でアマゾンで売ってるから、元テキストはなんて書いてあるのか確認しようと思えばできるんだけど、面倒くさい。キンドルだったらさくっと買ってしまうところなんだけど、英語のリアル本を取り寄せるほどこの作品には興味ない。というのは失礼だな。そういうの無視しても(元テキストを読まなくても)面白い話です。翻訳本ももう、当然ながら品切れ重版未定なんで、ネットか図書館で探すしかないけど。
 えー? アザー・エデンって「3」まで出てるの?
 それはともかく、タイトルの「アミールの時計」のアミールもわからないですよね。アラビアの王族・貴族の称号らしいです。本文では「首長」って漢字に「アミール」ってルビがあるから、なんとなくわかる。アラブ首長国連邦が英語表記だと「United Arab Emirates」(発音は面倒くさいので調べてません)。
 しかし、「積荷崇拝者」に「カーゴ・カルト」ってルビふってあっても、さっぱりわからないのよな。これもウィキペディアを読んでやっと知ることができました。グーグルとウィキペディアがあって本当によかったな。あとアマゾンも。
 で、時計の中の「殻竿」に関しては、結局不明のままです。

緩く募集・1万光年の星へ一瞬で着ける方法の元祖

 1万光年先の星へ着くには、光の速さで1万年かかります。
 で、それだけの距離を移動しながら、同時に時間移動(1万年分過去に戻る)もすれば…。
 1万光年先まで一瞬に行ける。
 これは、映画だとヒッチコック『めまい』(1958年)の中で使われて有名になった、「トラックバック(ドリーアウト)しながらズームイン」する手法、つまりドリーズームと似ています。
 被写体の大きさを変えずに遠近感を変えることになるので、「な、な、な、なんだこれは」というような登場人物の主観が、映像的にわかりやすく表現されるので、ヒッチコック以降のサスペンス映画によく使われるようになりました。有名なのはやはりスピルバーグの『ジョーズ』、サメが出てきたのを見て驚く警察署長ブロディの場面ですね。
 要するに、タイムマシンが実用可能だとしたら、超光速航法も可能になる。
 しかし、このアイデア、昔読んだSFの、何に一番最初に出てきたのか覚えてないので、ご存知のかたがいましたら教えてください。
 とりあえず「ドリーズーム航法(あるいは、めまい航法)」とでも言っておこう。

目で見ないとわからない落語(一目上がり)

 落語は戦後からビデオが普及するまでの間は、ラジオやレコードの聴覚芸術として楽しまれることが多く、目で見て面白い話はともかく、目で見ないとわからない話は残らないことになってしまいました。
 仕草で禅問答をするのが話のキモである「蒟蒻問答」は映像の容易な入手が可能な時代になって復活した例の代表的なものですが、なんとも困った代物なのが「一目上がり」という話です。
 要約しますと、これは正月のめでたい話で、大工の八五郎(八っつぁん)が横丁のご隠居の床の間にある掛け軸を見て「賛」という語を知り、「けっこうなサンで」と、他の人の掛け軸を褒めようとすると、それは「詩(シ)だ」「悟(ゴ)だ」と順に言われたので、あー、これは一目上がりで褒めるんだな、と思って、「けっこうなロクですね」と言ったら「いやこれは七福神だ」というのが一般的なオチです。でもってこれは別に、聴覚だけでもわかるんですよね。
 その話に出てくる掛け軸は、以下のようなものです。

 三代目三遊亭金馬の演目では以下のようになっています。
賛:
「しなわるるだけは答えよ雪の竹」
詩:
「近江(きんこう)の鷺は見がたく、遠樹(えんじゅ)の烏見易し」
悟:
「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売り、汝五尺(ごしゃく)の身体を売って、一切衆生の煩悩をやすむ。柳は緑、花は紅(くれない)の色いろ香。池の面(おもて)に月は夜な夜な通えども水も濁さず影も止めず」

 別の掛け軸にしてある噺もあります。
賛:
「横にゆく蟹にも恥じよわが穴を たちかえりみる心なき身は」
詩:
「仁に遠き者は道に疎(うと)く 苦しまざる者は智に于(うと)し」(伝:富岡鉄斎
悟:
「遊ばんと欲す 遊びて足らず 楽しまんと欲す 楽しみて足らず 貪(むさぼ)らんと欲す 貪りて足らず」(沢庵禅師)

 で、こっちのほうの「詩」なんですけど、漢字で書いてあるんですよね。

『遠仁者疎途 不苦者于智』

 これはつまり、何と読むかというと、なんとなんと。

「おにはそと ふくはうち」!

 この落語をやる落語家は、掛け軸(みたいなもの)を持って、説明しながらやって欲しいものだ、と思いました。
 今回のネタ本は『マンガ落語大全 まずはここから』(高信太郎講談社、2003年)です。

ペンティメント(リリアン・ヘルマン)

『ペンティメント』はアメリカの女性作家リリアン・ヘルマンによる小説で、日本では『ジュリア』という映画公開に合わせて、映画と同じ邦題で1978年に翻訳されました(パシフィカ)。そのあと早川書房の文庫にもなってます。
 映画に言及する形で、映画評論家の山田宏一は、和田誠との対談『たかが映画じゃないか』(1978年)の中で、この語について以下のように、脚注引用の形で紹介しています。

『カンヴァスに描かれた絵の古い絵具が年月のたつうちに透明になってくることがある。すると、絵によっては一番はじめに描かれた線が見えてくる。女のドレスの下から樹が姿を現わし、子供の姿の向こうに犬が居り、一隻の大きな船が浮かんでいるのは、もはや大海原の上ではない。この現象はペンティメントと呼ばれる。描いた人間がもとの絵を「後悔」し、心変わりしたということである。言い換えれば、昔抱いた考えは、後に変わることがあっても、また姿を現わし、再び現われてくるものだと言えるかもしれない。』(リリアン・ヘルマン「ジュリア」中尾千鶴訳・パシフィカ)

 早川書房のほうは大石千鶴訳になっていますが、同じ人です。
 日本語にすると、逆・思い出補正?

こわい話を書くときの留意点

 新しい年(2018年)がはじまったので、ぼちぼちこのブログにもテキストを書くことにします。個人的なメモみたいな感じで、思いついたことを書くだけなので、思い出したら読んでみてください。
 2018年の目標として「短編小説をいろいろ読む」ということにしてみました。毎食前後に読むので、一日3つぐらい? 短い話かと思ったら、思った以上に長かったのでどうにもこうにも困ることもあります。「坑夫」(宮嶋資夫)とかね。
 短い話を読んでいると短い話が書きたくなるもので、そういうのを考えると、こわい話が一番作りやすいかな、とか思う。
 こわい話を書くときには、以下のことをやってはいけない、ということになります。

・主人公(語り手)が実は死んでいる、という話はだめ
・主人公と話している人間が実は死んでいる、という話はだめ
・オチがある話はだめ

 はじめのふたつはまあ、ありふれてるんで避けたい。実に素人というのは、こういう話を作りたがるもんなんですね。お前は都筑道夫じゃないだろ、と、自分で自分にツッコミ入れたくなる。
 最後のはどう言ったらいいんだろうな。こわい話というのはまあ、曖昧な結末なんですよ。よくできた話はオチがあって、困ったことにこわくない。

物語がまたひとつできました

kakuyomu.jp

 その最後に書いたテキストと同じものを、また書いておきます。
     *
 これは、自分がほぼ完成させた5番目の物語で、『物語部員の生活とその意見』からはじまる県立西高校サーガ(仮)のひとつです。その物語群の中では、同じようなキャラクターが、すこしだけ異なる別々の世界で活躍します。
 だいたいの世代は、こんな感じで薄くつながっています。

最年長 遊久(緑の上履き)
1年下 千鳥紋、年野夜見、その他(赤)
1年下 立花備、清、朱音、その他(青) ※『物語部員の生活とその意見』『物語部員の嘘とその真実』
1年下 ナオとそのきょうだい(緑) ※『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』『物語部員の陰謀とその合理的な解決』
1年下 カオル、アキラ(赤)
1年下 ミトラ、トノ、ハチバン(青) ※『物語部員の愛とその遍歴』

 別にそれぞれの作品の関係は薄いので、どれから読んでも問題はありません。書かれた順に読みたいという人は『物語部員の生活とその意見』『おれのふたごの妹はひとりだが6人いる』以下は、タイトルでわかりやすくなるようにしてみました。「愛とその遍歴」「陰謀とその合理的な解決」「嘘とその真実」。つまり「あ」「い」「う」です。次は「栄光とその悲劇」になる予定です。
     *
 そしてこれは、2時間ぐらいで読める、2時間ぐらいの間に起きる事件に関する物語を書こうと思って書きました。つまり、この物語を読者が読む時間と、物語の中の時間とは同じという設定です。実際の時間と映画の中の時間が同じという映画は、探すとないことはない、程度にはあります。物語がテキストによって作られている場合は、読まれる時間の設定が難しい(個人差がある)のですが、かなり探せば多分あるはずです。
 どうしてそんな設定の縛りを立ててみたかというと、物語って基本的に何でもあり、なんで、それだと適当に書きすぎちゃうなあ、と考えてしまったからです。
 自分がライトノベルを読む場合、1時間に120ページぐらいなので、2時間では240ページぐらい、という感じになります。
 1ページの字組は42×17行というフォーマットで、改行なしの場合は714字ですが、それは詰まりすぎで、まあだいたい500字ぐらいの見当です。
 そのため毎日1000~2000字、ページ数にして2~4ページ、時間だと1~2分間の出来事を書きました。
 さらに細かい計算だと、「…」一字は24分の1秒で、映画のコマ数と同じという指定です(一部違っているところもある)。
 ところで実に不思議なことに、フィルム時代の映画の1分は1440コマで、これはライトノベルの文庫の2ページ分をびっしり文字で埋めたら1428字なので、コマ数と字数はほぼ同じになります。
 結局最後のほうは、いつものようにいろいろありすぎる話になってしまいました。
 いつもほどには暑くない夏に書きはじめて、いつもよりすこし寒い秋のさなかに完成することができました。

桜と死

 人が季節に秋を感じるより一足早く、桜の木の葉は色を変えて、だらだらと枯れ葉を落としはじめます。
 春の桜の花が、命の盛りに急な病気で入院してそのまま帰らなくなった人のように残酷に散るのに対し、秋の桜の葉は、長患いの老人で、じわじわと弱って天命のように散ります。
 病院に植えられた桜の木の花が散るころ、最後の春の暖かくなりかけた頃に病人は死に、秋の桜の木の葉がだらだらと散るころ、酷暑と長い残暑を乗り切った老人は息絶えます。
 桜の木の盛衰を見るたびに思うのは、あと何回そのような春と秋を見ることができるか、要するに死について真面目に考えなければならないな、ってことです。
 入院した若者は、春の彼岸に遺言を書き、いつ死ぬかわからない老人は、お盆に身辺整理をします。
 大事で恥ずかしいサイトのIDとパスワード、恥ずかしいだけの保存画像や昔のテキストは、生きているうちになんとかしないといけないのです。
 そうしてさらに考えることは、第二次大戦中の日本の、強いられた死に臨んだ若者たちのことです。彼らは若いときに死んでしまったので、戦後70余年経っても若者です。
 阿川弘之は、エッセイ「「あゝ同期の桜」に寄せる 第十四期海軍飛行予備学生遺稿集「あゝ同期の桜」を読んで」の中で、以下のようなことを書いています。阿川弘之全集第16巻P206

『立大出身の須賀芳宗(注:遺稿を残した者のひとり)が書き残してゐるやうに、昭和二十年の春の九州の桜は、ずゐぶん長い間美しく咲いてゐたらしい。そしてその桜の季節が、沖縄への特攻作戦のもつともたけなはであつた時期である。
 出て行く者は、みな飛行機や飛行服に桜の花をさしてもらつて出て行つたといふ。日本の歴史に、これほどいたましい桜の花ざかりはなかつたであらう。』

 大日本帝国の大義と、家族を守るために、日の丸と桜を背負って散っていった人たちの親族や友人も、もう今はいなくなりつつあります。兵士となった子供を持つ母親は、数年前に千鳥ケ淵の戦没者追悼式典から消えました。妻子を持つこともなく、若者として死んだ兵士の子供はいません。