砂手紙のなりゆきブログ

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偶然の出会い(坂道のアポロン)

 物語を作るときに、ついやりがちなこととして、この人物とこの人物を会わせるために、ちょっと無茶な状況を作ってしまう、というのがあります。
 わかりやすい例として、町(ちょっと大きな、まぁ東京周辺の人なら池袋とか渋谷あたりを想像してください)で主人公の男性が、クラスの女の子(ただの友だち)のボーイフレンドのために、誕生日のプレゼントを選ぶのにつきあってあげるという状況があって、その二人がたまたま一緒のところを、主人公に気がある幼馴染がたまたま見て誤解する、みたいな奴ですね。
 もうそんなところが出てくるアニメ、ぼく自身も何本見たかわからない。しかし考えたら実生活でも似たようなことはあった、という話は聞かなくもないので、信じられないほど無理筋な物語構成ではないのかもしれない。たいていの人は、繁華街というかにぎやかなところに行けば、誰かもしくはその知り合いに会います。
 今まで見たアニメで一番無茶な状況作りがひどかったのは(と過去形で語るのは、もっとひどいのがあったからで、それは後述します)『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』でしたかね。なにしろ町でファストフードの店に入っては知り合いに会い、電車のわき道を歩いていては会い、神社の前で信号待ちをしていたらジョギングしている人に会い、引きこもりだった子が登校してみようと思ったら途中で昔の仲間に会い、とにかくどこへ行っても物語の中心人物格の誰かに会う。
 秩父ってどんだけ狭いんだよ、と普通に思うが、はなはだしいのは、合コンカラオケで歌って、サラリーマン風の男にホテルに連れて行かれそうになるヒロイン(女子高生)の一人を、別の男性主人公が助ける、という展開で、これはどう考えてもカラオケ屋の前で2時間はその男子がヒロイン出てくるのを待ってないとできない行為で、それは物語展開には必要なエピソードかもしれないけど、多分実際には無理だと思う。
 残念なことに(でもないですけど)、物語進行のために人と人が出会う、という件について無茶してると思う例として『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』はぼくの中では二番目の作品で、現在のところ一番は『坂道のアポロン』なのだった。
『坂道のアポロン』の中で、まず比較的「こんなことしなくても」と思う例を挙げてみます。
 このアニメは主人公(メガネをかけてピアノが弾ける西見薫)と、副主人公(不良だけどドラムが叩ける川渕千太郎)、それにヒロイン(レコード屋の娘の迎律子)がメインの話なんですが、千太郎が尊敬している先輩・桂木淳一は学生運動のからみで大学をやめて、地元の佐世保に戻ってアパート暮らしをしている。そこを千太郎が訪ねると、千太郎の初恋の女性で美術部の先輩・深堀百合香が一緒にいる(同棲はしてたっけかな)。
 いやこれ、別にその部屋に行ったら二人がいる、なんてことしなくてもいいんですよ。話の展開上は、たとえば千太郎はアパートに行ってみたら鍵がかかっていて、しょうがないので階段の前で待っていたら、二人が銭湯もしくは夕食の買い物から戻って来る、とかでも全然問題ない。
 多くの物語の中で「待っている間に誰かに会う・見かける」ってのは自然なんだけど、『坂道のアポロン』ではあまり待ったりなんかしない。それどころか、待たないことにあまり疑問を感じさせない。この物語作りはすごいです。
 もっとすごい例を挙げると、潮干狩りに行った薫と千太郎が、ちょっとしたことで口論になって、頭に来た薫が集めた貝を海浜にぶちまけて、走っていくとうまいタイミングで帰りのバスが来る。1960年代のバスの、舞台となっている浜辺あたりの運行具合はさっぱり不明ですが、そんな山手線みたいな本数で海岸を走っているとはとても思えないので、薫には最低5分ぐらいは走らせてもいいと思うんだけれど、そういうことをしない(させない)んだなぁ、この話の作者は。
 さらにすごいのは、雪の降った日の登校時、千太郎がふざけて薫に雪球を作って投げる。で、人に当たりそうになったところを薫が迎律子にプレゼントされた手編みの手袋をした手でかばう。かばわれた相手は迎律子。
 あり得ない、とまでは言わないけど、話としてはうまく作りすぎてる話になってますね。
 ちなみにアニメ『坂道のアポロン』はすごく面白いです。今年見たアニメのベスト1にしてもいいぐらい。ただ、やはり「この話のここでこうなるのはおかしくないか?」と思うところが出ちゃうのは仕方ないことかなぁ。