砂手紙のなりゆきブログ

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語られる物語(おおかみこどもの雨と雪)

 映画『スパングリッシュ 太陽の国から来たママのこと』は、プリンストン大学の小論文筆記試験選考のシーンではじまり、その中に主人公の女性、クリスティーナ・モレノとその母親のことを書いたものがあることで、「語られる物語」として映画全体が構成されます。
 その物語の中では美人の母親がシェフの一家の家政婦として働き、そこを辞めるまでが語られます。
 …だけど、その話って、本当かどうかわからないですよね。何しろ、それが本当のことであるかどうかを確認するための「別の誰か(たとえば、シェフとか、その妻とか)の視点」が、映画の中では全然語られてないんですから。
 主人公が語る物語の中では、海岸できれいなガラスのかけらを集めまくって数百ドルをシェフの男の人からもらおうとした、ということになってる話、でもそれは嘘で、彼女の体をシェフの男の人がもてあそんで(児童レイプ)、それを脅迫のネタとして金を巻き上げようとした黒い話かもしれないですよね。
 また、物語の中に、主人公がいない場面が続出してますけど(家族の会話とか、主人公の母親とシェフの男性との会話とか)、それは「彼女が聞かされた嘘の話」かもしれないし、「彼女が大学の人に語っている嘘の話」かもしれないですよね。
 特に、この家族の妻の浮気とか、家政婦に対するライバル心、というのは絶対クリスティーナの創作だと思う。なんでそんなことするのか、って、そのほうが物語が面白くなるからですかね。
 だってこの話、単純にしたら「母親の家政婦が諸般の事情で勤め先をやめた」というだけの話で、その「事情」はたとえば、シェフの母に対するセクハラかもしれないし、主人公に対するセクハラかもしれないし、妻のジェラシーかもしれないけれど、そういうのは全然語られない。要するにミステリーにおける「信頼できない語り手」という奴で、たいていのミステリー好きは「語られる(語り手がいる)物語」を「真実の一面しか語っていない物語」として解釈することにしているんじゃないかと思います。
 それで思い出したのがアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』で、あのアニメも「(娘によって)語られる物語」なんですよね。冒頭で雨がちゃんと、
「おとぎ話みたいだって笑われるかもしれません。でもこれは確かに私の母の物語です」
 って言ってる。
 なので、本当のことかどうかはわからないまま、物語になってる。
 だいたいこんな、フォークロアみたいなことあるわけないじゃないですか。お母さんは一人で不実な男性の子供を産み(男性は行方不明になり)、雪は山に迷い込んで遭難して死ぬ、というのが多分本当の話で、お母さんは娘に嘘をつき、娘はぼくたち(アニメを見ている人たち)に嘘をついている。
 大学に合格するためとか、たくさんの人に見てもらうためだったら、別に物語になっている嘘のほうがいいんじゃないかと思いますよね。
 なお、そんな風に「誰かから聞いた話」スタイルで短編をまとめていてうまい作家は、海外ではモーパッサン、日本では岡本綺堂が有名なんじゃないでしょうか。岡本綺堂が訳したモーパッサンの「幽霊」は、青空文庫で読めるのでちょっと読んでみてください。老人が昔体験したこととして語る、なんとも不思議な怪談です。