砂手紙のなりゆきブログ

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物語の悪人は、自分が悪い奴だと知っているのか

 考えるとよくわからなくなることのひとつです。西部劇じゃこう、悪いほうがいいほうに「参ったぜ、俺の負けだ」とか嘘言って、拳銃捨てたかと思うと拾って撃とうとするところを、いいほうが素早く撃ったりしますよね? それはお話(物語)だからそうなのか、実際にそういう人がいて、それを物語としてリアルに再現したからそうなのか。
 ぼくたちの知っている物語は、リアルに反映するということがあるんでしょうか。森進一のモノマネをする人を森進一がマネて、「もっとすごい森進一」にだんだんなっていく、みたいなことは、現実世界が変に「役割世界」だから普通にありますよね? 社長や校長は、平社員や学校の生徒みたいにはふるまわないけれど、「会社社長」も家では「奥さんに頭が上がらない亭主」を演じることって、ありますよね。
 まぁ実際に、西部劇の悪人が、西部劇映画の悪人を見てその真似をする、ということはないんですけど、じゃあシェイクスピアハムレット』のクローディアスは? これは架空の人物ですが、シェイクスピアがキャラ造形するときに、ギリシャ悲劇でありがちな「運命の人」を意識してない、ってことはないですよね。
 実在の人物である忠臣蔵の人たちは、曽我兄弟の仇討の話を知ってますよね。そもそも曽我兄弟の話は、実際にあったことを脚色した嘘なわけですが、嘘を模倣して(真似して)自分の行動を規範として作りこむのはまぁ善人としてはわかるんですよ。悪役のほうは本当、考えれば考えるほどわからないんだよなあ。
 つまり、吉良上野介が仇討ちを受けるように、終始演技を意識してたのかどうか。ちなみに、曽我兄弟の話では、悪役の工藤祐経が事情を知っていながら知らないフリをして、仇討ちができるように曽我十郎・五郎の兄弟に巻狩りの通行手形(のようなもの)を渡したことになっています。これ、吉良上野介が知ってたら、赤穂浪士の討ち入りの日は、わざと討ち入りしやすいようにしておいたとかあるんですかね。
 現代では、繰り返された物語を物語として演じる場合は、たとえばハムレットはギリシャ悲劇を知ってるかのように、大石内蔵助は曽我兄弟を知ってるかのように、舞台で演じないといけないと思いますが、悪役の場合は本当にどうふるまうのがいいんだろう。