砂手紙のなりゆきブログ

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ウディ・アレンとアイザック・アシモフ(スリーパー)

 1972年12月20日、52歳のアイザック・アシモフは37歳のウディ・アレンと会いました。このころのウディ・アレンはコメディ業界では知られてはいるものの、監督映画が『泥棒野郎』『ウディ・アレンのバナナ』『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』に、脚本を担当した映画が数本ある程度の、知る人ぞ知る人でした。
 会うきっかけは、ウディ・アレンが次回作『スリーパー』の科学的アイデアについて、アシモフの助言を得るためでした。日本語では『アシモフ自伝II』の下巻にその件が出てきます。山高昭訳。

(前略)私はウディ・アレンの大ファンだったから、その台本を見たかった。期待は裏切られなかった。(中略)台本を読むのは映画を見ているようなものであり、私は大笑いした。
(中略)「あなたはSFをどのくらい書いたのですか?」と彼は訊ねた(注:翻訳では敬語ではないんですが、一応敬語にしておきます)。
 私は、ちょっと心配になりながらいった。「たいしたことはない、実をいえば、ほんのわずかだ。たぶん全部で30冊だろう」それから、なかば囁くように、おずおずと説明した。「他の100冊はSFじゃないんだ」
(中略)ときに、この映画というのは〈スリーパー〉だった。(中略)その時点までに彼の作った映画のうちで最大のヒットになり、きっと感謝状が来ると思ったのだが、とうとう来なかった。

 ちなみに、ウディ・アレンのドキュメンタリー映画である『映画と恋とウディ・アレン』でも、ダイアン・キートンは「とても楽しく仕事ができた」と言ってて、ウディ・アレンは「彼女(ダイアン・キートン)のアドリブもけっこう入れた」とか言ってます。ダイアン・キートンのその後の仕事・私生活ぶりを見ていると、どう考えても踏み台仕事にしか思えないんですが(だってその後『レッズ』のウォーレン・ビーティ、次はアル・パチーノですよ)、けっこういい思い出になっているみたいです。
 なお、『映画と恋とウディ・アレン』では、ミア・ファローのことはひとっかけらも出てきません。
 いい忘れましたが、ウディ・アレンアイザック・アシモフの高校の後輩で、今はその高校は「アイザック・アシモフ高校」って名前になってます。文学と科学の高校( P.S. 99  The Isaac Asimov School for Science and Literature)。ブルックリンのほぼ真ん中ぐらいのところにあります。