砂手紙のなりゆきブログ

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映画の文法と観客の理解力(明日に向って撃て!)

 映画『明日に向って撃て!』の冒頭は、主人公2人(ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド)が属していた盗賊団「壁の穴強盗団(The Hole in the Wall Gang)」による列車強盗のシーンが、サイレント映画の上映タッチではじまります。
 このシーンは撮影監督であるコンラッド・L・ホールの友人ハロルド・ウェルマンによって撮影されたものですが、この映画に限らずカメラの視点(誰をどう撮るか)という映画の文法、というか本を読むときの決まりみたいなものが、十分に理解されたのはいつごろのことなのか少し気になりました。
 映画『明日に向って撃て!』冒頭は、盗賊団が列車を襲っているところに警備隊が来て、強盗たちを撃ちます。
1・まず銃を撃つ警備隊隊長
2・列車の上で撃たれて倒れる団員A
3・続けて撃つ警備隊隊長
4・列車のタラップから倒れる団員B
 我々は普通に「1」と「3」のカットに出てくる人物を同一人物だと判断し、「2」と「4」が違う人物であり、かつ「1」「3」で出ていた人物とも違う人物だと判断します。
 ただこれ、というか、こういう視点って、映画が生まれるまで、多分映画の文法が確立されるまで、なかった視点なんじゃないかと思うんですよね。
 映画を見ていない(見慣れていない)人なら、1~4に出てくる人物をすべて同じ人物だと思って、「なんで(2で)撃たれた人が(3で)撃ち返しているのか」と思うのが自然です。
 もうこういう映画の技法(文法)は当たり前になっちゃってて、誰も疑問に思わないことになっています。しかし舞台なら向って左(下手)に悪役2人を配置し、右(上手)に警備隊長を配置して、右が撃つ→左が倒れる、という場面を、観客は横から見ることになります。
 無声映画時代のバスター・キートンでも、見る・見られる人物を相互に写す、という演出は普通にあって、「へまをしたキートンの顔」→「怒っている人物の顔」→「どうしようかと考えるキートンの顔」→とりあえず逃げる、みたいな映像はあります。
 日常生活では、「怒った顔の人物」を見ることはできても、自分の視点では「それを見て困った顔をしている自分」というのは見ることはできないんですよね。鏡があれば別だけど。ここらへん考えはじめると、映画の文法と日常の視点の微妙な差異についてごく初歩的な部分で考えさせられます。
 漫画だと、たとえば「言っただろ、俺にさからうとどういう目に会うか」と、悪役を主人公視点で見て(読者に見せて)、その後「まだ…まだ何もはじまってねぇ!」と、主人公の怒った顔を見せる、というような表現(漫画の文法)は、ありふれていすぎて例にあげるまでもありません。少女漫画だったら「どうもありがとう」と言う美形男子に続いて、頬を赤くしている女子の顔の絵、というのは普通ですね。でもそういうの、たとえば舞台や小説だったらどう表現するんだろうなぁ、とかちょっと思います。
 なんか今日はややこしい話になってしまった。
 参考画像。『キートンの大列車追跡』で、机の下に隠れたキートンが、テーブルクロスの穴のところから覗いているところ。写るのはキートンの眼。

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 次にキートンの眼でみたヒロインの画像になります。

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