砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

水上勉と作家たちと女性たち(川上宗薫・吉行淳之介)

 1948(昭和23)年に処女作『フライパンの歌』を出した水上勉は、その後一度作家の道をあきらめ、繊維業界紙の広告取りから洋服生地の行商人として、二度目の妻・叡子と共に貧しい生活を、千葉県の松戸でおくっていました(最初の妻には逃げられました)。
 裏は射撃場で、始終銃弾の音が聞こえてくる場所でした。
 川上宗薫はそのころ、同じ常磐線の柏にある定時制高校で英語を教えていたのですが、彼の義妹と水上勉の二度目の妻とが大分の高校・東京の短大(女子体育短大)ともに同じだった縁で、ある日ふらりと洋服を買いに水上勉の家にやって来て、菊村到その他の作家に引きあわせました。
 まもなく水上勉の会社は倒産し、半年の間に小説を書くということで、期を限って叡子は神田のキャバレーにホステスとして働くことになりました。
 水上勉は1958(昭和33)年の初秋に松本清張の『点と線』を読み、手法に感動して、この手の推理小説なら書けるかもしれないと、射撃の音を聞きながら、両足にできた吹き出物を治療するため、石炭酸の溶液が入ったバケツに足をつっこみ、翌年の3月までに「箱の中」という仮題の700枚の原稿を完成させました。
 その原稿は菊村到の紹介で河出書房の編集者・坂本一亀(作曲家・坂本龍一の父)のもとにわたり、4回・のべ4000枚の改稿の末、推理小説『霧と影』は完成し、1959(昭和34)年の夏に刊行されることになり、坂本と水上は水上の妻・叡子の働く神田の店にその見本を持っていき、「ご苦労さんでした」と言いました。
 その後、水上勉には別冊文藝春秋から推理小説の依頼が編集者・岡富久子からあり、『雁の寺』という題で書き始めましたが、150枚書いたところでどうにもこうにも坊主が殺す推理小説にならず、投げ出してやけ酒を新宿で飲み始めたところに十返肇がいて、編集者の岡にも居場所をつきとめられ、「あと20枚、今晩中に書いて欲しい。印刷所も待ってる」と必死に頼まれます。
 十返の説得もあって山の上ホテルに閉じ込められた水上は、同じホテルに泊まっていた吉行淳之介の原稿用紙を使って(岡と吉行とは面識がありました)なんとか小説を仕上げ、その『雁の寺』は第45回(1961年上期)直木賞受賞作品になりました。
(このテキストは大村彦次郎『文壇挽歌物語』(ちくま文庫)に依拠しています)

関連記事:

カンニングと沈黙(吉村公三郎)