砂手紙のなりゆきブログ

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野坂昭如・綱淵謙錠・丸谷才一はなぜ旧制新潟高等学校を選んだか

 前のブログで「丸谷才一綱淵謙錠って、旧制高校・大学の後輩と先輩なのにあまり仲良くないよね」みたいな話をしたあと、小谷野敦さんから「文芸春秋1973年1月号に野坂昭如綱淵謙錠丸谷才一の鼎談載ってる」と教えてもらったので、図書館に行って読みました。「旧制新潟高校はバカ当り」という見出しのものです。
 とりあえず、3人がどうして旧制新潟高校に入ることになったのか、当人の弁を要約してテキストにします。
 綱淵謙錠樺太の出身で、当時の日本国内(内地)ならどの高校も同じだという感じで一高受けたんだけど落ちて、中学の先輩がたまたま新潟高校にいて、何度も受験しに行くのは面倒だし、そっちのほうだったら確実に入れそうな気がして新潟高校にしました。
 丸谷才一は中学の時の英語の先生が水戸高校出身で、同じ高校を勧められて旧制中学4年と5年のときに受けて2回とも落ちて結局浪人することになりました。そのときに安岡章太郎と知り合い、予備校の作文が50点満点で40点のものを書いたことがあることを話したら友達になりました。
 その後昭和19年の受験の際、旧制高校の試験科目から英語がなくなったので、進学相談をしたら一橋なら英語があるからどうだと言われたけれど、実業方面はちょっと考えるところがあったし、数学はてんで駄目だったので一高・浦和高は無理だから、食糧事情がよさそうで鶴岡に近くて港町ということで新潟高校にしました。
 野坂昭如は神戸だったんで三高と決めていたんだけどあっけなくふられて、少年院に行って(なんかすごいです)、新潟県副知事だった実父に「学校行く」って言って、新制新潟高校の3年に入れられるつもりが、まだ旧制新潟高校があったんで(ここらへん仕組みはよくわからない)、受けたら成績が悪くて文甲希望したんだけど文乙になりました。多分最後の旧制新潟高校の生徒の学年。
 この鼎談に出てくる他の人をざっくり挙げてみます。
 山本森康。襖を開けると上から下まで岩波文庫があった(野坂昭如・談)。その後どうなったのかネットではわからない。面倒見のいい先輩だったらしい。
 中山公男。東京大学文学部美学美術史学科卒業後延々と西洋絵画関係の仕事やってました。
 平泉澄。少しおかしい超国家主義の先生(丸谷才一・談)。その教え子と丸谷才一・中山公男のグループとは仲悪かった。
 平井正穂。英語の先生でその後東大の教授になる。変な口調だったらしい(丸谷才一・談)。
 佐藤晃一。ドイツ語の先生。トーマス・マンの研究者。
 家永三郎。日本史の先生。教科書裁判とかで有名。綱淵謙錠までは教えてたけど、丸谷才一が入った時に辞任してた。
 植村清ニ。東洋史の先生。直木三十五の実弟。
 安芸皎一。旧制新潟高校の第一回卒業生で、東大英文科から工学部土木学科に転科して河川学者になった人。
 あとは名前だけ。中山恒明(医師)、栗山康平(官僚)、杉浦光雄(東大医学部卒で綱淵謙錠と同級)。
 丸谷才一の友達で、前出の中山公男のほかに利根川裕(作家)、百目鬼恭三郎朝日新聞)。余談で上田哲(政治家)。
 なお、山本森康は丸谷才一が結婚するとき、女房の嫁入り道具を野坂昭如と一緒に運んだ仲だそうです。
 こうしてみると、なんで丸谷才一綱淵謙錠って友達として仕事一緒にしなかったのか不思議です。
 一番びっくりしたのは、綱淵謙錠が2年生で丸谷才一が1年生のとき、2年生が勤労動員で富山に行くことになって、寮の総務(委員長)を丸谷才一のグループに一任した、ってことです。
 仲いいどころかけっこう親しいやん、この二人。

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