面白かったものを語るのと比べると好きなものについて語るのは難しい(倉知淳『なぎなた』)
倉知淳『なぎなた』(東京創元社)は『こめぐら』とセットになっているお蔵出し的短編集です。この本には7つの短編が収録されており、その作品のいくつかとあとがきでは、作者の猫に関する熱い愛が語られます。
その語りの中で感じることは、好きだったり愛していたりするものに対する思いというのは、なかなかうまく伝わってこないものだなぁ、という感慨でした(違う考えを持った人にはすみません)。
要するに「○○がすごく好きなのはわかるけど、そのようにはぼくには○○を好きになることはできない」みたいなことです。
この感覚を伝えるのは難しいんですが、たとえばぼくはウディ・アレンとか丸谷才一が好きなんですけど、どこがどういう風に好きなのか、の感覚的な部分を伝えるのはあきらめていて、この部分がこういう風に「面白い(面白かった)」と語ることにしています。
ただ、動物のかわいらしさを語ると本当に「だってかわいいじゃないですか」と言うしかないところが困ります。ブログとかだったら動画・画像での表現が可能なんだろうけど、テキストってどうも感覚を伝えるのには向いてない気がします。
この本の中でも、語られてる映画(『青い麦の穂』『デストラップ』など)のほうに興味を持ってしまう。
『なぎなた』そのものは別に普通のミステリー短編集でした。個人的にはあまり男女のもつれが犯行の動機とかになってたりしないのが読みやすいです(というか、犯行の動機がよくわからないのはぼくの読み込み不足でしょうか)。
あとちょっと気になったことがありましたが、ミステリー全般の話として別の日に話します。