砂手紙のなりゆきブログ

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6時間で書かれた野坂昭如の短編小説「火垂るの墓」(文壇)

 1967年の夏、野坂昭如は悩んでいました。
 週刊誌「週刊コウロン」の雑文が縁で、雑誌の廃刊後「小説中央公論」に異動した編集者・水口義朗の依頼により1963年の秋に書き上げた「エロ事師たち」が三島由紀夫吉行淳之介などの絶賛を浴び、順調に、というより艱難辛苦の野坂昭如の作家道ははじまりましたが、それから4年、雑な仕事から足を洗えないまま1967年の7月に「アメリカひじき」という自身の戦争体験を元にした小説を書き、それが思いの外うまくいったので、この手でもう何作か書けないか、それによって直木賞を狙うことができないか、野坂昭如は考えました。
 雑誌の小説に関しては基本的に「締切日になったら書く」「1時間で原稿用紙5枚」という馬力の野坂昭如でしたが、1967年の夏は雑誌「小説新潮」の長編小説、それも1回目は巻頭120枚で3回300枚という依頼を受け、はじめて資料を駆使して好色出版の帝王・梅原北明をモデルに『好色の魂』を書くことになって、新潮社のカンヅメ部屋・新潮クラブの2階に閉じ込められました(1階は円地文子がカンヅメになっていました)。梅原北明の死因の「発疹チフス」でヒントを得た彼は、同じ月に発売される「オール読物」の短編として、終戦前後の自分の義妹2人と自分に実際にあったことをもとに、戦災孤児悲話をでっちあげることにしました。
 1967年の夏、野坂昭如が原稿執筆を一段落させるまでの流れは、彼の小説(じゃないかもしれないけど)『文壇』によりますと以下の通りです。

1日目:午後、「小説新潮」の担当編集者・森定亨に新潮クラブに案内される
 午後8時半、森定の案内で神楽坂の居心地の悪いキャバレーで酒を飲む
2日目:午前2時半に戻る。森定は新潮社の仮眠室で休む
 午前7時起床。
 午前9時から午後3時までに『好色の魂』第1回原稿のうち50枚を仕上げる。その間に野坂は短編「火垂るの墓」のヒントを得る
 午後になって帰宅
3日目:午前6時から正午近くまでかけて自宅で「火垂るの墓」30枚執筆
 午後3時、六本木「アマンド」で雑誌「オール読物」の担当編集者・鈴木琢ニに「火垂るの墓」の原稿を渡す。鈴木の感想は「シビアな作品」
 新潮クラブに戻って夜までかかって『好色の魂』残りの70枚を仕上げる

 後に娘の話として、『「火垂るの墓」の作者はどういう気持ちでこの物語を書いたでしょうか』という問いに対し、父は「締め切りに追われ、ヒィヒィ言いながら書いた」と答えた、ということですが、『文壇』を読む限りでは「直木賞の選考委員がどういう選評を書くか、意識しながら書いた」というのも半分ぐらいはあるような気がしますが、みなさんはいかがですか。
 なお、その頃の小説誌の締め切りは通常毎月10日がギリギリ、11日ではゲラが見られなくて、12日朝は印刷所で毎日1枚受け渡し、特例として梶山季之笹沢左保戸川昌子は13日だったそうです。野坂が書き始めるのはいつも10日深夜からだったそうですが、8月は「お盆休み」があるので、野坂がカンヅメにされたのは8月の6日か7日あたりですかね。

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