砂手紙のなりゆきブログ

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意図的にイマジナリーラインを崩している気がするアニメ『ダンタリアンの書架』(成瀬巳喜男)

 映画の撮影技法として「イマジナリーライン」というものがあります。
 これは話すと長くなるんですが、わかりやすくいうとたとえば「話している人物の切り返しをしない」みたいな、視聴者を混乱させない技術です。
 落語で右が与太郎で左が大家さんだったのが、途中で左が与太郎になったりしたら混乱しますよね。
 車だったら「右から左に走っている車」の次は「右前方から左後方に走っていく車の後ろ姿」になるんで、これが「左前方から右後方に走っていく車」のカットになると「ちょっと忘れもの取りにいってくる」という話になっちゃいます。
 こういう原則ができたのは、観客の理解の問題もあるんでしょうが、撮影の都合もありますですかね。左右の人物を逆方向から撮るとなると、照明・撮影用の道具全部動かさないといけないんで、けっこう面倒だと思う。
 アニメ『ダンタリアンの書架』は、第一次大戦後のイギリスを舞台に、幻書というものをめぐってお前ら萌え豚野郎どもが萌え狂いしそうな本好き少女ダリアンとその無能な相棒ヒューイが活躍しやがる話です。
 小さくて生意気な口調でお茶と甘いものが好きなダリアンとか、その敵の片目眼帯少女とか、声の人も含めて『ローゼンメイデン』に似すぎているのはたぶん気のせいです。
 それはともかくこのアニメは、意図的なのか無意識になのか、アニメの記号的なイマジナリーライン的なものを崩している演出が、気になりはじめるとすごく気になります。
 特に顕著だと思ったのが、「第六話 魔術師の娘」の娘の室内での会話シーンとか、「第十一話 黄昏の書」の村の構造とか(この話の中で登場人物は左右に行ったり来たりするんですが、一度では村の家・丘の配置がわからない)「第七話 焚書官」なんですが、話してると長くなるんで光源に絞って話します。
 第七話は焚書官・ハルとその相棒フランが、湖のほとりにある工場を持つ町に行き、事件を解決して帰る話で、事件の冒頭ではハルが地図をひらいて、町が「湖の北方」にあることを確認し、道がふさがれているため遠回りして(東のほうをまわって)向かいます。このときの光源は正面もしくはバイクの右手側で、午前中だと思われます。
 その後の町の中のバイクは基本的に「右から左」への移動として表現されます。
 それから町の親切な人の家に一泊して、次の日の昼ごろぐらいまでに工場を爆破して(工場内の描写は窓を背景にした強い逆光なので、工場の窓が南側にあると推測できます)、夕方に2人はバイクで帰ります。
 帰るときの風景は湖を背景に逆光で、バイクを「右から左」に走らせる演出なんですが、ちょっと頭の中では混乱します。
・湖を背景にするならバイクは北・東・南側にしかカメラを置けない(湖の西側にある道は閉鎖中)
・夕陽の逆光で湖を撮るなら東側でしか撮れない
・来たときが「右から左」へバイクが動いていくのなら、帰りは「左から右」へのバイクの動きのほうが、見ている人には納得できると思うが、そうするためには湖の西側を走らせないと湖面は入れられないし逆光にもならない
 ダリアンを主としたこのアニメの室内のカメラワークは、ざっくり人物の場所を決めておいたらイマジナリーラインなんて知ったこっちゃない、みたいな成瀬巳喜男小津安二郎の演出みたいで、気になることはなりますが、考えてこういうことやってるんだったらすごいな、と思いました。
 確認される地図と、逆光シーンの画像を置いておきます。

 なおぼくは、基本的には「アニメの光源なんてどうでもいい(演出がしやすいほうにあればいい)」という非リアリズム派です。

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