砂手紙のなりゆきブログ

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フィリップ・K・ディックの世界観と映画とのミスマッチ性(ジャッキー・チェン)

 SF作家のフィリップ・K・ディックは世界のにせもの感にこだわった人でした。要するに仮想記憶(偽装記憶)と仮想現実。世界は虚構であり、自分のこの記憶は偽装であるという設定は映画関係者の製作心をくすぐるものらしく、『ブレードランナー』(1982年)の製作&ヒット後、もしくはディックの死後、いくつかの映画作品が生まれましたが、映画の宣伝以上に記憶に残るようなヒット作ありましたっけか。
 映画というのはもともと仮想現実で、その中で役を演じている役者(俳優)は偽の記憶を持った演技者です。その中で「世界は虚構だった」という話を展開するのは、映画の中が「真実」だと思わせるような結末でなければならず、それは無理です。
 映画の虚構が現実だと思わせるためには、映画が映画だと思わせるような結末でなければならず、ディックの映画化作品の最上の終わらせかたは、カメラがどんどん引いていって、主人公たちを撮しているカメラや照明その他の現場スタッフが写り、地球・太陽系・銀河系まで写って、それがパラマウントの星のひとつになるようなスタイルです。
 芝居にはカーテンコールがあり、そこでは芝居の中の主人公・悪役・ヒロインから神に至るまで手を取って頭を下げ、「この虚構につきあっていただきありがとうございます」と挨拶をするし、ライトノベルのあとがきでは登場人物たちが本筋には関係のない話をして、アニメではオーディオコメンタリーで声優が「ここの、何か食べながら話すシーン、むずかしかったんですよねー」とか話し、ジャッキー・チェンの映画ではNG集があります。
 ジャッキー・チェンが主演のディック映画とかあるとよかったのに。