砂手紙のなりゆきブログ

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奥野健男によると『砂の女』(安部公房)『美しい星』(三島由紀夫)は政治的小説としてすぐれているらしい

 全集・現代文学の発見(學藝書林)という、半世紀も前に出版された、当時の現代文学っぽいもののアンソロジーを読んでいます。プロレタリアート文学や異端の文学(あくまでも当時の異端です)なども入っていて俯瞰的にはいろいろ知ることできるんですが、1970年代に出てきた小説なんか入ってたりしない。村上龍ですら入ってない。いちばん新しそうな人っていうと…野坂昭如かな?
 その4巻は「政治と文学」という青くさいタイトルで、後半の半分にはこんな評論(ていうか、非小説)が掲載されています。
・芸術・歴史・人間(本多秋五
原子核エネルギー(火)(荒正人
・反語的精神(林達夫
・政治と文学(平野謙
・「政治の優位性」とはなにか(平野謙
・一匹と九十九匹と(福田恆存
・批評の人間性(中野重治
日本共産党批判(竹内好
・政治と文学(小林秀雄
・組織と人間(伊藤整
・政治のなかの死(埴谷雄高
・「政治と文学」理論の破産(奥野健男
・「革命運動の革命的批判」の問題点(針生一郎
・松沢無罪確定の後(佐多稲子
・政治と文学(高橋和巳
「政治と文学」ってタイトルのものが3つもあったり、破産してるというのもあったりして大変な時代ですが、今の作家・評論家でそんなこと考えてる人はいるんですかね。昔も今も少なかったんじゃないかと思いますが、共産党共産主義的思想のかわりに今を別の視点で語るものがない、というのが難儀です。ポストモダンももうプログレッシブ・ロックみたいな感じだし。
 テキストの内容はともかく、昔読んでなんとも奇妙な印象しか受けなかった御大・小林秀雄がけっこうすらすら読めておもしろかったです。
 まぁそんなことはどうでもいいけど、いちばん喧嘩売ってるのは奥野健男でしょうか。

『大正・昭和の文学理念の中心軸であった「政治と文学」理論の破産は決定的である。(中略)ぼくらは全く新しい政治文学の芽生えの季節に入りこんでいる。そのことを先駆的に鋭く提示したのは、安部公房の『砂の女』と、三島由紀夫の『美しい星』である』

 これが書かれたのは昭和38(1963)年6月。大江健三郎とか石原慎太郎じゃないんですね。でもって、『わが塔はそこに立つ』(野間宏)と『海鳴りの底から』(堀田善衞)にひどいこと言います。

『ぼくは、この二作はこけおどかし的な壮大な外貌にもかかわらず、むざんにも失敗した非文学的作品と考える』
『どこでもよい、頁をひらいたところの文章を引用してみよう。
「月形の母親の横に広い身体は、安原の八畳の部屋一ぱいにひろがっている。部屋の真中にたらした100ワットの裸電球はいつもこここを訪ねるものの眼を一挙につぶし、これを思いついた安原のために絶対の力を発揮するのだが、いまは彼に何の力もかさなかった。四人は部屋のなかにはいろうとして、たちまち後におしもどされる」
 何と大げさな無意味な表現だろう。要するに月形の母親がいるので、勝手違って部屋に入りにくいということが書かれているだけだが、横に広い身体が八畳の部屋一ぱいにひろがっているとか、はいろうとしてたちまち後におしもどされるとか、前の部分は心象として極めて月並な誇張の形容であり、後の部分は、ちゅうちょを表現するにはあまりに機械的な、チャップリン映画的表現でこっけいであり不適である。中ほどの「100ワットの裸電球は、眼を一挙につぶす」というのも大げさであり、それが安原の思いつきだと考えるのも異常な神経の妄想であり、裸電球の発揮する「絶対の力」とはどんなものだか見当もつかず、したがって「いまは彼に何の力もかさなかった」という表現も無意味だ。彼の部屋がいつもの印象と変って映るということを、こうものものしく大げさに、重大事のごとく表現されると、ぼくは主人公の気持にかえってついて行けず、あほらしくなってくる』

 引用されているテキストは『わが塔はそこに立つ』からのものですが、なんか志ん生の落語「うなぎ屋」みたいな話ですね。「裂くと幅を取りますったって、この皿だけの幅じゃないか、おれは皿の中歩くんじゃねぇんだ。そりゃうんと幅のあるうなぎで、開くと5尺も6尺もあって、座敷じゅううなぎになって、おれが座敷の外に出ないといけなくなるとか、そんなんじゃいけないけど…」
 野間宏はちょっともう忘れられたような作家になっちゃってますね。
 こういう昔の政治っぽい思想に否定的な文章をつらねた奥野健男ですが、今読んでみるとけっこう昔の新左翼アジテーションみたいなテイストを感じるのは業というか時代というか。
 ちなみに『砂の女』はこんな感じ。

安部公房の『砂の女』は、マルクス神話のタブーから脱した作者が、既成の価値概念や方歩をすべて排除し、政治を自分の実験室に引き入れ、その諸性質を解明しようとした作品である。政治は砂によって暗喩される。政治の諸性質を、砂の諸性質にいちいち結びつけ、あてこすり、諷刺しようとするのではない。現代の状況を砂のyほうだと感じただけだ。そして安部は直接の政治から離れ、ただ砂の諸性質の解明に純粋に向う。その手つきは、アマチュア無線機を組み立てる、化学の定性分析実験に興じる科学少年に似ている。少年は孤独であり、その行為は無償であり、その方法は幼稚である』