砂手紙のなりゆきブログ

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童話「ごんぎつね」でムカつくところと、ぼくに納得できる終わりかた

 新美南吉の童話「ごんぎつね」は、いたずら者のきつねである「ごん」と、百姓(火縄銃とか持ってるんで、農夫なのかどうかははっきりしない)である「兵十」の、因縁と恩讐の物語です。
 この話は冒頭で「これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんから聞いたお話です」ではじまる、いわゆる「物語の中の物語」として語られます。つまり、茂平というおじいさんが本当のことを語っているかどうかは、複雑に関係しあって確認が取れません。語られる話の中に「茂平」という人物は出てこないし、茂平と関係ある人物がはっきり出てくることもありません。
 童話「ごんぎつね」で一番ムカつくのは、この物語は誰の視点で語られているものなのかはっきりしないことです。
 基本的に疑似一人称的三人称で、ごんの視点から見たもの以外はほとんど語られてないのに(兵十がどういうことをしたのか、どんな目に会ったのかは、ごん以外の視点で語られることはありません)、最後はごんが死ぬ視点で語られてるってのはどうもおかしい。
 これは、兵十の視点での何かが語られるべき話なんですが、そうすると子供が読むにはややこしくなりすぎるのかな。子供が「ごん」に自分を同一視させて話を聞きながら、ごんが死んでしまうというのはあんまりです。ディズニー映画だったら絶対ハッピーエンドにするだろう。小学生の感想ざっと目を通してみたんだけれど「さいごのごんの気持ちになって考える」ってところでは「しかたないなぁ」みたいなのが多くて困った。これはそういう話として解釈していいのか。
 しょうがないので、ぼくに納得できる話を考えてみます。

『兵十は立ち上がって、なやにかけてある火なわじゅうを取って、火薬をつめました。そして、足音をしのばせて近よって、今、戸口を出ようとするごんを、ドンと…いやなんで銃を俺に向けるのよ。ごん撃たないと駄目だろ兵十。やめろよ、お前は俺が語ってる物語の登場人物だろ? ま、待ってくれ! 俺が悪かった! すみません、ごめんなさい、最初から話を作りなおして…』

兵十「ごん、ずっと前からお前がしてたことは知ってたんだ。語り手のすきを見て火縄銃を取るのがなかなか難しくてな。やっと殺せたよ」
ごん「コンコン」

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