砂手紙のなりゆきブログ

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ヒッチコックは役者に考える演技をさせない人でした(引き裂かれたカーテン)

 ヒッチコックトリュフォーとの対談集『映画術』のなかで、『引き裂かれたカーテン』について以下のように述べています。

『わたしの気に入らなったのは、ポール・ニューマンの演技だ。きみも知ってのとおり、ポール・ニューマンはアクターズ・ステュディオ出身の俳優だ。何も表現していない、いわば中性のまなざしが、わたしには、シーンを編集するために絶対必要だったが、ニューマンはそんな、何も表現しない中性のまなざしで見る演技をいやがった。工場のシーンで、ポール・ニューマンは(グロメクを殺した直後に)グロメクの兄に会う。そのとき、彼はグロメクの兄のほうに、単純に無意味に目をやることができず、アクターズ・ステュディオ方式で、例のごとく顔をちょっとそむけながら、思いいれたっぷりに演技してみせた。編集でなんとかそこは手直しできたけれども、結局シーン全体をカットしてしまった。』

 映画は1960年代後半から、世界中の監督がドキュメンタリーの手法を取り入れ、役者は監督にショットの意味を確認してから演技するようになりました。ここらへんはちょっと音楽業界におけるジャズ(インプロビゼーション)の取り入れ具合に似ている感じがします。「こんな歌は歌えない」って歌手が言わない時代があって、作曲者とは関係なく歌う時代になって、歌手が自分で曲作る時代になる。
 役者(俳優)と監督の関係は難しいものがあります。でももう50年ぐらい、役者に考えさせない監督生まれてきてない気がする。しかし行きすぎたアドリブ(インプロビゼーション)がないよう、コントロールしてる監督は多分いる。

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