砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

アメリカにおける公共図書館とその思想について(ボストン市立図書館)

 活字文化の浸透・大衆化と、大衆を読者対象にした新聞・小説の普及は19世紀にいろいろなものを招きました。
 1848年に一般公開された、世界最初の近代的公共図書館とされるボストン市立図書館は、「図書館とはどういうものか」について考えさせられるための素材になります。
 マサチューセッツ上院議長だったホレス・マンは1837年にその職を辞し、州で最初の教育長になり、公立学校の改革に取り組みました。彼は教育自然権(市民・国民に付与される自然の権利)として、師範学校と学校区図書館の設立をはかりました。彼が教育長になる以前の1837年4月に、マサチューセッツ州は学区教育のための課税を可決しましたが(1837年法)、その成果は十分とは言えず、というより1839年の調査では公教育としての図書館はまったく機能していないことがわかり、1842年3月に州議会は新しい学校区図書館法を採択しました。その内容は学校区図書館に対する資金援助を明確にしたものですが、フィクション(小説)という娯楽形式に関しては、町の貸本屋的なソーシャル・ライブラリーという仕組みに依拠する部分が大きいものでした。
 1851年にはマサチューセッツ州図書館法が成立し、学校教育が終了したあとの社会人教育的な図書館の任務も明確にされますが、その成立に尽力したのは州下院議員ジョン・ワイトという人物でした。
 1852年5月24日、ボストン市立図書館理事会が成立し、初代理事長にはエドワード・エヴァレットが選ばれました。彼は13歳でハーヴァード大学に入学し、16歳で最年少かつ首席で卒業するという漫画みたいな人物で、連邦議会下院議員からマサチューセッツ州知事(彼の時代に州の教育委員会が設置されました)・駐英大使・ハーヴァード大学学長を経てその職につき、アメリカの国務長官にもなりました。所属政党はアメリカホイッグ党(イギリスのホイッグ党とは関係ありません)だったので、民主党出身の第11代大統領だったジェームズ・ポークの時代(1845~49年)は国政に参加しませんでした。彼の図書館に関する思想も公教育を念頭に置いたもので、悪書というか通俗書には興味を示しませんでした。
 スペイン文学の研究者であり、エヴァレットの友人でもあったジョージ・ティクナは同時期にやはり理事をつとめましたが、本に関する考えは、利用者の要求に対応する、という、一般市民に目をやった、というよりむしろ一般市民を利用者の中心に置いた『1852年報告』と言われるもので明白にされました。またその報告では学校区図書館の失敗についても言及しました。
 アメリカホイッグ党の思想は、自国に対する過剰な自意識と、未来に対する楽観主義で、産業・交通と並んで教育の構造化に、保守的な立ち位置ながらも力を入れることになりました。
 当時のボストンはまた、ニューヨークに対するライバル意識が強く(ていうか、それは今でも続いています)、西欧的な人文系教養主義がアメリカ図書館の基礎形成となったのは、その後のアメリカの、いかにも実務的で実践的な、ビジネス方面のサポートとしての図書館みたいなイメージとは違っているのが興味深いです。

(本日のテキストは川崎良孝『図書館の歴史 アメリカ編 増訂第2版』(日本図書館協会、2003年)に依拠しています)