ということで『処刑の部屋』(1956年)見ました
胃潰瘍をこじらせながら銀行の支店長代理をしている父を持ち、不良仲間と遊んでいる大学生の島田克巳が、女をレイプしてナイフで刺されて死ぬ(本当に死ぬのかどうかはわからない)話。もっと無軌道で美しい映画かと思ったらそんなでもなかった。わりと貧乏な世界の中で生きるちょっと都会っぽい若者たちの話。どういう人たちが見て影響されたのかは不明だけど、酒に睡眠剤ってのは模倣犯的にちょっとやってみたくなるんでしょうね。
今の、血と暴力に慣れている時代には当時の衝撃度がうまく伝わらない。
フィルム・ノワールが太陽族映画になって、それがフランスのヌーヴェルヴァーグになったんだろうなあ、なんて補助線を引いてみるとわかりやすいのか。解釈違ってるかもしれないけど。
市川崑監督は、普通にぼんやり見てるとかっちりした映画の画面作りなんだけど(映画文法の勉強になる度合いはヒッチコックよりも高いくらい)、油断してるとちょっと変なカット入れたりするから、そこらへんのさじ加減がたまらないです。
せっかくなので、主人公がなんかのゼミ(K大・W大との合同思想研究会)で思想を語る長広舌のところ、耳コピで手打ちしてみます。
『要するに価値概念の置き方の違いだよ。精神とか意識とかいうものは、自分たちが送る毎日の生活の中から生み出されてくるものなんだ。生活現実に内在する諸行為から、人間の思考形式は決定されるべきです。意識や精神が前提条件となり、その帰結として人間の存在が認められるというようなものではない。必要なことはトライアル・アンド・エラーによって自己の生活現実を少しずつ固定化していくことだ。生活現実の中に生起する自己の行為から、精神の論理体系を作り上げることが先決問題でしょう? そういうダイナミックな…』
ここのところが、ラストのリンチ場面の次ぐらいに面白かったな。