砂手紙のなりゆきブログ

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猫は何のメタファーなのか(赤西蠣太)

 最近はいろいろ疲れるので、1930年代の映画、それも日本映画を見ています。このころの映画は無声映画からトーキーへどんどん切り替わっていっているわけですが、無声映画的なわかりやすい人物造形・行動描写が残っていて、あまりセリフに集中しなくても、キャラの名前や小道具のディテールを検索しなくても楽しめる気がするのがいい感じです。
 映画『赤西蠣太』(1936年)は伊丹万作監督による伊達騒動を題材にしたコメディ色の強い映画で、若殿の暗殺を企む悪者について、門から出たのか何度も家来(奴)に酒を飲ませて確認させる侍のやりとりがばかに面白くて、しかし考えてみるとある種退屈なところ(話とは直接関係がないところ)なので、普通の人はどう見るのか興味を持ちました。
 で、冒頭の雨の夜で、主人公の侍・赤西蠣太が迷い込んだ子猫を同僚の侍から譲りうけ、それが大きな猫になるまで飼ったあげく、間者としての業務を終えて「猫よろしく」という書き置きとかつお節を置いて遁走するんですが、この白猫に関する逸話や、伊丹十三と実際にいた猫の「ナナ」に関する話は京都精華大学紀要第四十号「「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色」(岡田彰仁)にくわしく書いてあるんで読んでみてください。
 個人的に気になったのは、この時代の映画はいろいろなもので心情や感情を映像化してるな(四季の移り変わりや天気なども含めて)、ということと、いったい猫はなんのメタファー(暗喩)=記号化された感情なのか、ということでした。
 赤西蠣太は間者として伊達兵部邸に入り、菓子と将棋を愛し、友と言える人間は原田甲斐に仕える、やはり間者仲間の青鮫鱒次郎でした。
 これは「孤独」ではないですね。「寂しさ」かな。
 猫が出てくる映画としては、成瀬巳喜男『めし』(1951年)も印象が強いです。これも大阪住まいの寂しいヒロインの飼い猫でした。
 とはいえ、007シリーズの悪役であるエルンスト・スタヴロ・ブロフェルドとその飼い猫の寂しさに匹敵するものはなかなか映画では見ることができないですな。
 現存するフィルムでは、赤西蠣太の肩の上に乗る猫は確認できないのが残念です。