砂手紙のなりゆきブログ

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東横映画(のちの東映)と五島慶太の発言

 東横映画はもともと五島慶太が渋谷を中心にした映画館経営のために創立した会社ですが、戦後満州映画から来た人たち(主にマキノ光雄)にうまいこと言われて映画製作会社になりました。
 映画『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(1950年)を見た五島慶太は涙を流し、プロデューサーの岡田茂を呼んで、
「俺には二人の息子がいて、昇は生きているが下の進はブーゲンビルの戦いで死んだ。いい映画を作ってくれてありがとう。これは報奨金だ」
 と言って、当時の金で5万円の小切手を渡しました。今だと500万円ぐらいかな。
 もちろん岡田茂はその金をみんなで一晩で使いきりました。
 映画の製作費は当時の金で1200万円だったそうです。
 その後五島慶太は赤字続きの東横映画に頭にきて、京都撮影所に乗り込み、
「俺が持っている旭海運の船が一艘沈めば5億円の損だが、東横映画は現在11億円の赤字だ。今日は船を一艘沈めるつもりできた」
 と大演説をぶちますが、マキノ光雄その他の京都のスタッフにまるめこまれてとりあえず潰す話は消えました。
 結局1951年に東横映画は他の関連会社と合併して東映が創設されることになり、東横映画の黒川渉三社長に代わって経理畑出身の大川博が新会社の新社長になりましたが、五島慶太大川博の関係はあまりいいものではなかったようです。