砂手紙のなりゆきブログ

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「…という話はどうかな」という映画の問題点(お小夜恋姿)

 画家の内田良一は巨匠の父を持つ屈折した男で絵の修行中。母親は英才教育を強いるが、良一は美人のモデルである町子となさぬ仲になり、結婚を決意する。ところが田舎の温泉では彼の許嫁である旅館の娘・お小夜がいて、彼が立派な画家になって求婚して来るのを待っている。
 …という話はどうかな、と、とある温泉宿の一室で、宿泊代を溜め込んだ売れない作家(編集部には「作風がロマンチックすぎていけない」と言われてます)の山木は、旅館の娘・お小夜に話をします。
 要するに、画家の話はこの作家の小説の中の話。
 映画の中の映画や、小説の中の小説の問題は、そのメタ構造と虚構のしっかり具合で、「本当の話」と「映画・小説の中の話」の区別がうまくつかない、という点です。
 この問題をどう解決すればいいか、というのは、「虚構をヘタに作る(アニメだったら作画崩壊とか声優の棒演技とか)」ぐらいしかいい方法が思いつきません。
 島津保次郎のこの映画『お小夜恋姿』(1934年)ではその後、実在のはずのお小夜(演じるのは田中絹代で、この時代の彼女は悪くないです)と番頭・運転手の三角関係になって、番頭が運転手を脅して宿から追い出す、という、あまりにも虚構的な展開になるので、最後にやはり作家の山木が「…という話はどうかな」というオチになりはしないか、とハラハラしてしまいます。