スタニスワフ・レム『ソラリス』の3つの不幸
スタニスワフ・レム『ソラリス』には3つの不幸があります。翻訳と映画と内容(テーマ)です。
翻訳に関しては、これは訳文がひどいというわけではなくて、日本でのSFが勃興するころ(1960年代)に『ソラリスの陽のもとに』という名前で出版され、日本にSFが定着するころにはたいていのSFファンは読んでいて、新訳・完訳のほうの、今書店で売られているほうはあまり読まれている気がしない、ということです。まるでドストエフスキーみたいだ。
映画に関しては、アンドレイ・タルコフスキー(1972年)とスティーブン・ソダーバーグ(2002年)の2つがあって、どちらも悪くはない(と思う)んだけど、監督の独自解釈があるんじゃないかな。
内容に関しては、この話の表層的な単純さと、「確かにこれは小説だしSFなんだけど、それだけでいいんだろうか」と、その作品の時代に応じて考えさせられてしまう複雑さがあります。
たとえば小中学生の感想文で、「ぼくは『ソラリス』を読みました。生きている海を持つ惑星の話で、主人公のケルビン博士はかわいそうだなあ、と思いました」と書いてもなんら問題はない。
ただ、面白い小説というのはなんか、10年ごとぐらいに読むと、その年での面白さというのがあるんですよね。
夏目漱石『吾輩は猫である』とか。
あと、ポーランド語の作家っていうのも損してるかな。
ナボコフの場合は、単純に見える『ロリータ』(1955年)も、英語で小説を書いていたおかげで他の小説もどんどん訳されたり原語で読まれたりして多重解釈が可能になりました。
…まさかあなた、『ロリータ』の新訳(2005年・若島正訳)も読んでない、ってことはないですよね?
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