砂手紙のなりゆきブログ

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教室に忘れ物をして戻ったらクラスメートが「○○さん感じ悪いよねー」なんて話をしてて中に入れない、なんて都合のいい物語が許されるのはケット・シーがいるネオ・ベネティアだけ(ARIA The AVVENIRE)

 ぼくは「たまたま○○を見てしまう・聞いてしまう」という話の仕掛けが嫌いです。
 これはもう、憎んでいると言ってもいい。
 ただ、そういう状況が出てくる話の評価に関しては、だから評価を下げる、ということはあまりない。ああまたやってる、と思うだけです。
 作品の評価は、話の登場人物の頭のいい・悪いで決まり、それについてはまた別の機会に話すかもしれない。
 ところでこないだ『ARIA The AVVENIRE』というOVAの先行上映(劇場公開)を見たんだけど、とても癒されて足湯に入ってる気分で、ところどころ意識が遠くなったけど面白かったです。
 しかしこれ、アニメのシリーズを見てない人にわかりますかね。ケット・シーとか恥ずかしいセリフ禁止とか。
 えー…爺ちゃんの3回忌に集まったメンバーがそのまんま7回忌に集まったみたいなアニメです。でもアテナさんいないんだよなー。ちょっと涙出る。
 で、この話では新ウンディーネとなって頑張っている水無灯里が、水路でたまたま同期のプリマである藍華・S・グランチェスタおよびアリス・キャロルと出会ったり、誕生日(裏誕生日)にアリシア・フローレンスと会えなかった晃・E・フェラーリがやはり水路で会えたりしますが、そういうのは全然問題ないわけですね。
 あの世界にはケット・シーという超越的存在(物語内部でメタな役割を担っているキャラクター)がいるから。
 物語において、物語の作者は超越的存在として、どんなに都合のいい状況でも、話の展開上必要ならば作れます。
 若者が海岸に行ったらたまたま亀が子どもたちにいじめられてたり、川で洗濯をしていたお婆さんがたまたま大きな桃が流れてくるのに出くわしたり。
 でも、なんかそういうのって、はじめっから亀は子どもたちを前もって買収しておいて、浦島太郎が来るのにあわせて演技してもらってるように思えませんか。
 お婆さんが桃を拾ったところで、「はい本番オッケーです」みたいな監督の声とか、聞こえませんですかね。
 多分「たまたま」が目立つ話というのは、その物語を作っている人のもうひとつ前に何かを置けば解決するんじゃないかな。
 まあそういうたくさんの「たまたま」が集まって、物語という「みらくる」が生まれるんですよねえ(こういうのが「恥ずかしいセリフ」の一例です)。