砂手紙のなりゆきブログ

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うなぎと浜松

 東海道本線は、戦後から「こだま」が走り出す1958年まで、東京と大阪の間は「つばめ」と「はと」が最高7時間半で走り、出張で東京・大阪へ行く会社員は浜松あたりで昼食を取り、午後遅くに部課長会その他社内の儀礼的な会議をやって、夜は取引先の接待、翌日はヘトヘトになって東京・大阪へ帰る、ということになっていました。また1964年に東海道新幹線ができるとそれは日帰りの出張になりました)。
 だいたいつばめ・はと時代が日本映画の黄金時代でもあるので、京都で撮影がある監督や俳優はその列車を使ってました。
 浜松でうなぎ弁当が名物になったのは戦後の20年ぐらいの間で、それ以前の名物は浜納豆という、納豆菌ではなく麹菌によって作られた納豆みたいなものでした。尾崎翠第七官界彷徨」(1933年)にちょっとだけ出てきますが、貧しい人のための、味の濃い食べ物です。
 うなぎを昼に弁当として食べるという習慣はそもそも江戸時代にはなく、うな重は大正時代に生まれました。
 浜名湖という養殖に適した湖があったので、かつてはうなぎの養殖も盛んでしたが、昔の人がうなぎを本場で食うということでは、利根川周辺の湖(印旛沼・牛久沼など)で取れた天然うなぎを食べることでした。別に今は浜松にうなぎを食いに行っても別に意味はないですな。東京で食べるのと同じものが売ってるんだから。
 落語『うなぎの幇間』は、昼飯にうなぎを食べようと思った野良の幇間がひどい目に会う話ですが、代金は9円75銭と言われるとおり、明治時代に生まれた話です。出てくるものはうな重ではなくうな丼のはずなんですが、そこらへんは曖昧にやってしまう。