砂手紙のなりゆきブログ

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1954(昭和29)年5月の漫画雑誌業界の大変動

 戦後の月刊少年雑誌は、その付録の出来で競っていましたが、1954年の5月に諸般の事情で運輸省から付録の商品に金属類その他の使用制限の条件がつけられました。その制限外のものは、国鉄のほうでは雑誌としての安い運送料では扱わない、ということですね。
 藤子不二雄『2人で少年漫画ばかり描いてきた』(文春文庫、1980年)で、藤子不二雄Aは当時の状況を次のように書いています。P14-15

『昭和二十九年五月の運輸省による取決めで、木材や布、金属を用いた付録は雑誌なみの運賃では扱えないということになり、少年雑誌は翌三十年から、それまでの工作付録をほとんど漫画別冊にきりかえたため、各誌で別冊付録合戦が展開されていた。最盛期にはB6判の漫画別冊付録が八冊もついたことがある。こういった別冊付録合戦は巨匠、大家、中堅の少年漫画家では完全に消化できぬほどの需要を生み、いきおい新人の登場をうながしたわけである』

 藤子不二雄のふたりは1954年の6月に上京し、せっせと仕事をして、11月には手塚治虫が出ていったあとのトキワ荘に入って、多忙な新人漫画家生活を送りますが、年末年始に田舎に帰省して、翌1955年の1月締め切りの原稿をほとんど落とし、ほぼ1年間仕事を干されることになります。
 当時の月刊少年雑誌は、本誌に少しだけ作品が載って、続きが32ページとか64ページとかの別冊付録に掲載され、そうなるとコマの数や段の数などが違ってくるので、手塚治虫はあとで単行本にするとき非常に苦労して描き直し、21世紀の出版社はさらに苦労して雑誌掲載時のものに直したものを出すことになりました(なにしろ元原稿がなくなっちゃってるんで)。
 現在、というかもう10年以上前から、雑誌の付録には何をつけてもいい、ということになってまして、書店の雑誌売り場は小物売場みたいなありさまです。
 雑誌の全国への配本も、今はほぼトラックで、鉄道に頼ることはなくなりました。多分1980年代にはそうなっていたんじゃないかと思う。