砂手紙のなりゆきブログ

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超・人情噺「釣堀にて」(久保田万太郎)

 久保田万太郎の戯曲「釣堀にて」(1935年「改造」1月号に掲載)は実に不思議な戯曲です。
 これは、一人は二十代の若者、もう一人が五十代半ばぐらいの老人の、釣堀での会話ではじまります。
 まず若者は、自分は母親が、今の父ではなく別の男と関係してできた子だと話し、故あって離婚したのだけれど、会ってくれないか、ということを言われて、そんな見ず知らずの人のことをお父さんなんて言えますか、と頭に来ていることを話します。
 で、次の幕では、母親とその昔の仕事仲間だった芸者との会話で、自分の出自と父親の年をごまかしちゃってる、ゆえに「実の父親」と「息子」は、会っても多分わからないだろう、ということを明示します。
 ここで観客にネタバレしておいて、三幕目ではその老人が、あなたの昨日の話を聞いて気が変わった。考えてみたらこっちだって、会ったってしょうがない、とあっさり言います。
 人情噺に全然なってこない。
 形見の品とか出して「あなたはお父さん」「お前は息子」とかやらないんですね。もうこれが書かれた時代には、そういうのあまりにも古い趣向だ、ってんで。
 そのかわりに老人はこう言います。
「人情って奴は、はきちがえたら大変だ。しみじみそう思いました」
 ていうか、もう人情噺ざっくり切ってる。
 こんな馬鹿な話があるものか。
 中村哮夫『久保田万太郎 その戯曲、俳句、小説』(慶応大学出版株式会社、2015年)ではこれを非人情劇と名づけています。
 この話の内容は要約すると、曖昧なことを言う人(若者の母親)のせいで真実が見えなくなってしまうというものなんですが、中村哮夫は以下のように述べています。p35

『とにかく人間の力を超えた何ともわけのわからない力が人間を支配している。だから人間には自分なり、人生なりの「真実」を知る能力があるのだろうか。人間には何が真実なのかという事を認知する能力があるのだろうか……。不可知論という言葉がありますが、何を知ることが出来るのか、というのが一つのテーマであると思います。
 このテーマは、西欧の戯曲で言いますと、イタリアの近代の劇作家でピランデルロという人がおり、現代のイギリスの劇作家でハロルド・ピンターという人がいて、人間にとって真実というものは、知りうるものなのか、知りえないものなのかというその不可知論の地点で劇を書いておりますが、この「釣堀にて」の感覚は近いものだと思います。』

 あなたが見ているものは、誰かによって見せられているものではないのか、というテーマは、話の非人情な構成に実に合うものであります。
 なお、十代目の金原亭馬生はこの話の前フリ・オチ(サゲ)を、釣りに関連して、というか、からめて、実にうまくまとめています。

 

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