砂手紙のなりゆきブログ

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関係ないものを結びつける人間の想像力と久保田万太郎「釣堀にて」の問題

 これは昨日の話の続きです。
 久保田万太郎「釣堀にて」は、若者と女性、それに老人の三人が、子供・母親・子供と面識のない父親の物語として解釈されるようなキャラ設定になっているはずです。
 だけどこれ、変ですよね?
 本当にこの子(若者)は老人の子供なのか、母親はこの物語に出てくる若者の母親なのか。
 そういうことの説明は全然ないんだけど、読んだり見たりしている人はそう解釈せざるを得ない。違う解釈を許さない。
 人間の想像力って、そういうふうに働いちゃうんですね。全然別の若者・女性・老人の話で、違う人の話をめいめいにしてるだけかもしれないのに。
 たとえば映画で、「見えてきたぞ、あれが私の家だ」と言って、次のカットで家が映ると、それはもう語り手の家になっちゃうんですね。その家が全然別の場所にあって、別の日にカメラの人がひとりで撮ってきて場面にはめこんだもんだとしても。
 映画の中で車に乗ってた人が、車が止まって降りますよね。そうすると、動いてたときに乗っていた人と、降りた人が違っていても同じ人だ、ということになっちゃう。
 どうにもこうにも、物語というのは不思議なものです。
 たとえば、最初のシーンで終戦のときの焼け跡とかの実写映像を流します。
 次に、女子高生ふたりが「ねぇ、原爆って広島・長崎以外にどこに落としたらすごいと思う?」「んー、京都とか?」「えーっ、それってヤバいよ!」とか会話しているシーンを写します。
 最後に、ガメラが京都で暴れているシーンをつなげます。
 そうすると、京都でガメラを暴れさせたのは女子高生、という物語ができます。
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