砂手紙のなりゆきブログ

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江藤淳と山川方夫(三田文学)

 体を壊して先の見通しも暗い時期の秀才・江藤淳に、リハビリと叱咤激励のために原稿を書かせたのは、当時三田文学の編集長であった山川方夫でした。
 角川文庫『夏目漱石』(1968年)、「新版への序」では、江藤淳は以下のように述べています。

『もし、私が十年前の初夏のある日、当時「三田文学」の編集長をしていた山川方夫に逢わずにいたら、この本はおそらく書かれていなかったはずである。偶然のいたずらというものはあるものだ。私はそれを悔むべきかよろこぶべきかを知らない。いま切実に感じられるのは、山川がすでこの世にいないという奇妙な欠落の感触だけである。
 私は昨日のことのように覚えている。自分がまだ慶應義塾英文科の学生で、将来について何の計画も持てぬままに、その頃銀座の並木通りにあった「三田文学」編集室を訪れたときのことを。そこには私より三つか四つ年長の俊敏な青年がいた。それが山川と私の最初の出逢いであった。
 山川は、私がある同人雑誌(注:ちょっと何なのか調べます)に書いた英国の女流作家キャサリンマンスフィールドについての短文を読んでいて、文芸批評を書かせるつもりで私を招いたのである。私はしばらく考えて、夏目漱石のことでも書きましょうか、といった。
(中略)
 それにしても、何故あのとき山川が、私の最初の仕事にあれほど肩を入れてくれたのか、いまだに私にはよくわからない。それが友情というものなら、友情とは怖いほど無私になり得るものである。東京ライフ社は私の本を出してまもなくつぶれ、「夏目漱石」はやがて講談社からミリオン・ブックスとして再刊されたが、それが一度も単行本のかたちで上梓されたことがないのを、山川はかねてから不服としていた。だから、私は、勁草書房の好意で今度新装をこらして世に出ることになったこの増補版を、つつしんで輪禍で急逝した親友山川方夫の霊前に捧げたい。このなかには、われわれ二人にとってかけがえのなかった何ものかが埋められているからである。
 1965年4月10日』

 最後の一文にグッと来たけど、山川方夫の証言も聞いてみたいところであります。
 山川方夫は1965年2月20日に交通事故で亡くなりました。
 江藤淳はその後、大岡昇平と大火力戦をおこなうことになり、この件に関してはiTunesで「高宮利行教授最終講義 江藤淳大岡昇平論争をめぐって」(2009年4月)というすこぶる面白いのがあるらしいので、機会があったら言及します。