砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

市川崑の映画に関する本人の一言集・2(『あの手この手』から『ビルマの竪琴』まで)

 引き続き『完本・市川崑の映画たち』(市川崑+森遊机洋泉社、2015年)の中から、自作の映画に関する市川崑自身の話を引用してみます。
 引用は大変大ざっぱなものなので、この本そのものを読んで、さらに市川崑監督の映画を、見れるものがあったら見ることをおすすめします。

・『あの手この手』(1952年)
 一本だけということで、大映京都撮影所で作った。スタッフは最高に良かったが、時代劇中心のスタジオなので現代劇を作るのは小道具の紅茶茶碗ひとつにしても苦労した。
・『プーサン』(1953年)
 日比谷の交差点も、銀行の札束もロケで取った。銀行は日本橋日本銀行本店で、札束を数えるところは本物の女子行員だが、スタッフ全員がその手さばきと「あるところにはあるもんだなあ」と札束に見とれた。
・『青色革命』(1953年)
 三國連太郎木下恵介『善魔』で観て、チャンスがあったら使いたいと思っていて、この映画ではじめて出てもらった。
・『青春銭形平次』(1953年)
 プロデューサーの田中友幸さんに、大谷友右衛門さんの作品で一本作って欲しいと言われて作った。原作の野村胡堂には、イメージが壊れるからという理由で断られたところを、原案ということでなんとかお願いした。
・『愛人』(1953年)
 新感覚派的な演出をやった。僕の映画はいつもラストショットにこだわっている。
・『わたしの凡てを』(1954年)
 ミス・ユニバースで第三位になった伊東絹子さんの主演でプロデューサー(滝村和男)に頼まれて作った。あんまりナヨナヨしている感じの人ではなかったので、うまくメロドラマにはならなかった。
・『億万長者』(1954年)
 はじめてアリフレックスというカメラを使って、使いやすかったので自分でも一台買ってしまった。映画は青俳(青年俳優クラブ)の自主製作で、新東宝がラストショットをカットしたら買うと言って、それで青俳が売ってしまったので、監督の名前はクレジットから外してもらった。
・『女性に関する十二章』(1954年)
 藤本真澄さんの企画で作った。原作本の花森安治さんデザインの装丁が好きだった。
・『青春怪談』(1955年)
 相当な監督料を積まれて日活で作った。高木二郎プロデューサーがやはり日活で、『ビルマの竪琴』の映画化権を取ったというので、それが作りたいのもあって移籍した。
・『こころ』(1955年)
 久板栄二郎さんが書いた「こころ」のシナリオに惹かれて作った。20日間で作り、批評家の評判も悪くなかったが、当時のキネ旬ベストテンは暖簾街で、老舗の作品しか入らなかったのでランク入りできなかった。
・『ビルマの竪琴』(1956年)
 語り手が水島について語るラストシーンは、このときもリメイクのときも削れと言われたが削らなかった。この語り手のヒントはビリー・ワイルダー監督『第十七捕虜収容所』だった。ビルマロケの渡航申請が延々通らないので、しょうがないので公開にあわせて第一部を作り、ロケ終了後総集編を作ろうと思ったら、会社側がそれでは第一部のフィルムが無駄になるからということで、第二部ということで作ってくれないかと言われて激怒して日活をやめた。

 と、今回はわずか5年間の映画の話であります。
 やはり『ビルマの竪琴』の製作裏話が面白いので、もっとくわしいことを安価で知りたい人はウィキペディアの記述などを読むといいかもしれない。
 なんとか次回は『東京オリンピック』(1965年)まで行きたい。

 

関連記事:

・市川崑の映画に関する本人の一言集・1(『花ひらく 眞知子より』から『足にさわった女』まで)