砂手紙のなりゆきブログ

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市川崑の映画に関する本人の一言集・4(『おとうと』から『東京オリンピック』まで)

 引き続き『完本・市川崑の映画たち』(市川崑+森遊机洋泉社、2015年)の中から、自作の映画に関する市川崑自身の話を引用してみます。
 引用は大変大ざっぱなものなので、この本そのものを読んで、さらに市川崑監督の映画を、見れるものがあったら見ることをおすすめします。

・『おとうと』(1960年)
 水木洋子さんの脚本をやりたくて、粘り勝ちしてやることになった。トップシーンの雨傘のくだりは脚本に追加して入れて、ラストの音楽は夏十さんが珍しくウェットな気持ちになって入れることにした。キネ旬ベストテンで一位になったときは「やった!」と思った。
・『黒い十人の女』(1961年)
 何か一本自由に作れってことで作った。屋内で超望遠レンズを多用したり、ハンディカメラを使ったり、いろいろな試みをいっぺんにやろうとしたがうまくいかなかった。夏十さんに申し訳ない。
・『破戒』(1962年)
 テレビ放映のラスト2回を大映の永田社長が見て感動してくれて、雷ちゃん(市川雷蔵)で撮った。テレビ版のときは主役の丑松(市川染五郎)が告白するシーンで子供たちが号泣しすぎてうまくいかなかったので演出を変えた。お寺の鐘は実にいいものです。
・『私は二歳』(1962年)
 長女がちょうど二歳だったので、育児書を原作にして作った。子供はオーディションで決めたけど、無理なことはさせられないので、どこかで僕の集中力が不足しちゃった映画になっちゃった。
・『雪之丞変化』(1963年)
 長谷川一夫三百本記念映画。永田社長と大映の社長室で俳優論の話をしていて、そこから長谷川一夫さんの家に電話して即決だった。原作が少し古い気がして、挿絵の岩田専太郎さんの絵を見ながら考えた。当時五十いくつの長谷川さんを撮るのに、カメラマンの小林節ちゃんと、照明は大映京都の岡本健ちゃん(健一)にやってもらった。長谷川さんが選んだ衣装は柄がゴツイものばかりだったが、そのほうが顔のゴツさをごまかせるという長谷川さんの計算だった。
・『太平洋ひとりぼっち』(1963年)
 本物のヨットと同じく撮影用のマーメイド号にもエンジンをつけなかったので、撮りたいシーンがうまく撮れず苦労した。ヨットはふたつ作って、ひとつは船便で送ってあとから撮った。
・『ど根性物語 銭の踊り』(1964年)
 家を建てるのに大映に借金をして、お金が必要なので作った。『東京オリンピック』(1965年)の撮影準備とか春闘とかがあって、いろいろ大変だった。どんな映画を撮っていても、僕は僕ですよ。
・『東京オリンピック』(1965年)
 読売映画社の社長・田口助太郎さんに頼まれて、大映永田社長に白紙委任したら「どうしてもお願いしたい」ということで撮ることになった。1964年の4月の末に銀座の事務所に行ったら田口さんの他に事務と会計係のあわせて3人しかいなくて唖然とした。こんな映画のシナリオは誰もがはじめてだったけど、3時間位内ですべての種目の決勝が入るようにという条件つきで書いた。『民族の祭典』はだいぶ参考になったけど、後撮りを堂々と見せているな、と思った。フィルムはケチケチしていられないので、コカ・コーラオリベッティと石油会社にスポンサーになってもらったので、さりげなく商品が出ている。赤坂離宮の本部から毎日カメラ百台ぐらいとスタッフが出ていって、みんなでラッシュを見た。富士山をバックに走るところとか、聖火ランナーのところはけっこう後撮り。競技の撮影には二千ミリという超望遠レンズも用意したが、実際に使ったのは千六百ミリぐらいが限度。百メートル競争はハイスピードカメラを使用したが、音がうるさいので毛布をかぶせた。マラソンのアベベ選手は伴走車にカメラ4台で撮り、バレーボールの決勝はカメラ30台で撮った。ラッシュのフィルムは全部白黒で70時間。それを四分の一ぐらいだけカラーにしてもらって、3時間の映画にした。撮影後から映画公開までは4か月あったんだけど、家にまで持ち帰って毎日編集。4時間欲しいカットを探して、つなぐのはたった十分。記録か芸術かということで揉めることになった河野一郎オリンピック担当大臣の試写での談話は新聞の三面記事で、記録映画としては気に入らないという報道だったが、高峰デコ(秀子)ちゃんが中に入って直接話をうかがうことができた。どうも自分が期待した競技(乗馬など)のシーンが少なかったことが気に入らなかったらしく、それを隣の東京都知事に「芸術かもしれないが記録じゃない」と言ったら新聞記者が勝手に書いたということらしい。直接話したらわかってもらえた。

 ここからまだ、30本ぐらい映画を作っているので、ざっくり1日8~10本ぐらい紹介して、あと4日ぐらいはかかりそうです。

関連記事:

・市川崑の映画に関する本人の一言集・1(『花ひらく 眞知子より』から『足にさわった女』まで)

・市川崑の映画に関する本人の一言集・2(『あの手この手』から『ビルマの竪琴』まで)

・市川崑の映画に関する本人の一言集・3(『処刑の部屋』から『ぼんち』まで)