砂手紙のなりゆきブログ

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市川崑の映画に関する本人の一言集・5(『トッポ・ジージョのボタン戦争』から『犬神家の一族』まで)

 引き続き『完本・市川崑の映画たち』(市川崑+森遊机洋泉社、2015年)の中から、自作の映画に関する市川崑自身の話を引用してみます。
 引用は大変大ざっぱなものなので、この本そのものを読んで、さらに市川崑監督の映画を、見れるものがあったら見ることをおすすめします。

・『トッポ・ジージョのボタン戦争』(1967年)
 僕の映画のキャリアは人形劇からスタートしてる。テレビと違って映画はカラーでシネスコなので、トッポ・ジージョ(注:そういう名前の、ネズミの人形)を動かしているマリア・ペレーゴさんが映らないように苦労した。
・『第50回全国高校野球選手権大会 青春』(1968年)
 50回記念だというので特別に予算がもらえて作れた。練習のシーンはコンテ作りとミーティングのあと、分担制で撮った。肝心の試合のほうはあまり盛り上がるものがなかったんだけど、ドキュメンタリーの宿命だから仕方ない。
・『愛ふたたび』(1970年)
 ルノー・ベルレーというフランスの若手俳優が人気あるというので、彼の主演で作った。フランス・ロケに言ったら別の変なシナリオライターに盗作だと訴えられてネガを押さえられて難儀したけど、フランス人の男性と日本人の女性が恋をして金沢に行く映画なんていくらでもあるじゃないの。
・『股旅』(1973年)
 ATGの一千万円映画の企画で、資金作りと股旅ものの前哨戦を兼ねて『木枯し紋次郎』をやったら大ヒットして映画を作る金の六百万はできたんだけど、まだ三百万円足りなくなってきたので黄桜酒造にタイアップしてもらった。オールロケで、撮影に使う家に寝泊まりとかした。
・『時よとまれ 君は美しい』(1973年)
 当初の予定では監督十人の予定だったが、二人辞退したので八人の共同監督になった。(ミュンヘン・オリンピックの)男子百メートル決勝を正面から撮るのに、カメラマンは毎日超望遠レンズでテストしていた。クロード・ルルーシュ監督には走り終わったあとの場面での、長いワンカットを撮ってもらった。
・『吾輩は猫である』(1973年)
 東宝の映画を製作していた芸苑社の佐藤一郎社長に、芸苑社の第一作作品ということで頼まれて作った(注:市川崑監督は割とよく、いろいろな人に頼まれて映画を作っています)。撮影は名カメラマンの岡崎宏三さんとはじめて組んで、座敷にいる人物のアップを撮るのに望遠を使ったり、場面に工夫をした。
・『妻と女の間』(1976年)
 豊田(四郎)さんが正月映画として引き受けられたものが、間に合わないからということで共同監督になった。できるだけ豊田さんに調子を合わせて撮ったたつもりです。編集は豊田さんが風邪をひかれたので、ダビングも含めて全部僕がやりました。
・『犬神家の一族』(1976年)
 僕は昔から探偵小説のファンだったんだけど、ここへきてやっと巡り合えた。横溝正史さんの話は、突き詰めていくと話が成り立たないほどアリバイが茫漠としているので、脚本は新しく書くつもりで書き直した。高峰三枝子さんが久しぶりの映画出演で、最初はどうも歌手的だったんだけど、血しぶきを浴びるシーンの翌日から動きが全然違ってたので、どうも今イチだった前のシーンもリテイクしてみた。明朝体の大きな文字はデン・フィルム・エフェクトが作った活字見本をそのまま使った。

 ということで、このあたりからだったら皆さんも劇場で見たことがあるかもしれない市川崑監督の映画になります。

関連記事:

・市川崑の映画に関する本人の一言集・1(『花ひらく 眞知子より』から『足にさわった女』まで)

・市川崑の映画に関する本人の一言集・2(『あの手この手』から『ビルマの竪琴』まで)

・市川崑の映画に関する本人の一言集・3(『処刑の部屋』から『ぼんち』まで)

・市川崑の映画に関する本人の一言集・4(『おとうと』から『東京オリンピック』まで)