砂手紙のなりゆきブログ

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川島雄三『とんかつ大将』(1952年)の、謎で美しい演出について

 川島雄三監督の『とんかつ大将』は、浅草の下町を舞台にした、実によくできた話です。
 昭和20年代のとある年の瀬、隅田川の川端の道を急いでいた車が、だるまを積んだ荷車にぶつかります。あっという間に路上に赤だるまが、カラー映画だったら色美しく広がるところなんですが、この映画は白黒です。あわてる荷車の親父と車の運転手。後ろに乗っていた令嬢は表に出ることもなく運転手に金を「あげて」と渡します。
 そこへやってくるのが、しゃれたかばんを持った、様子がなかなかいい、「大将」と呼ばれる男(主人公)。彼はお嬢さんに、ちゃんと車から降りてお詫びをしろ、と説教します。
 むっとする令嬢ですが、そこは確かに彼の言うことがもっともなので、ちゃんと謝って、その男の後ろ姿を見送ります。
 さてここで舞台がワイプして、路上でバイオリンを弾きながら自作の歌を歌い、楽譜を売っている路上芸人の町田吟月。彼はその大将、荒木勇作のところに居候をしている男であります。道を歩きながら二人は「山川草木(さんせんそうもく)轉(うたた)荒涼」(乃木希典漢詩)とか「蛟竜(こうりゅう)雲雨を得ば池中の物にあらず」(三国志周瑜伝)などと、今の時代の者にはちょっとググりたくなるような会話をします。
 少し金が入ったから、とんかつでも食べよう、とその大将が吟月を誘いますが、それならちょうどいい店があるから、ということで行ったところが菊江という女性がやっている一直という店。吟月は主人公を「とんかつ大将、カメノコ横丁の相談役」と菊江に紹介します。
 店の支度がまだできていない上、働く料理人もいないため、しょうがないので吟月が自らとんかつを揚げようとするところに、ふらふらと入ってくる男。これが菊江の弟で、あまり素行がよくないインテリヤクザの周二という青年です。その青年が二階の、着替えをしている菊江のところに行こうとするのをふと抱えた吟月のエプロンについた赤いしみ(白黒映画ですが)。「こ、これは血だ」とあわてる吟月。
 まず、店の者がいないので、吟月が白いエプロンをかける、そのエプロンに血がつく、という実によく考えられた話の段取りです。
 二階の周二の傷を見たとんかつ大将・荒木は、かばんの中から応急手当の道具を出し、治療をしますが、これは銃槍で弾が残ってるから手術をしないといけない、ということで、近くの病院に車を呼んで連れて行きます。
 どうもこの大将、何をしている人なのかさっぱりわからないんですが、江戸時代なら素浪人、昼は素読の指南をし、夜は売卜を営む、というところを、どうもモグリの医者をしているらしいんですね(医者の免許はある様子)。
 それで大きな病院に行って、外科の先生が本日はお休みだということで手術をはじめたら院長先生が出てきて、これがさっき道で会ったお嬢様。
 彼女は佐田真弓と自己紹介をし、自分の病院の患者なら自分が見ます、と弾の取り出し手術をしますが、どうも見ちゃいられない有様で、結局大将がやることになって、その腕を見込んだお嬢様は、私の病院で仕事しませんか、と誘います。
 大将は「やっと頭の下げかたがうまくなりましたね」と捨て台詞をかっこ良く吐いて、病院を出たらもう日が暮れていて雨が降っています。
 ここまでで、映画は12分ぐらい。映画の中の時間は半日ぐらいですかね。
 この調子であらすじを書いていったらテキスト記事としては3日分載になりそうなんでだいぶはしょることにします。
 とんかつ大将の住んでいる長屋の隣がだるまを作った親父のいる家で、そこには病で目が不自由になった娘・お艶(つや)ちゃんがいます。
 とんかつ大将がボランティアをしている保育園の園児たちのために、クリスマスプレゼントを買いにデパートに行くと、子供と一緒の母親がいて、それが大将の昔のいいなづけで、戦地に行くときに友人で軍事工場の関係者だった(そのため本土に残った)丹羽利夫に身を託した多美さんで、子供は自分の名前を「丹羽利春」と名乗ります。
 戦後は零落して貧乏暮らしをしている丹羽利夫は、佐田病院の顧問弁護士・大岩の、「病院を拡張するということで用地を買収して、そのかわりにキャバレーを建てる」という悪だくみに乗ります。
 いくらその時代でも、病院の隣にキャバレーはないと思うんですが、細かいことは気にしない。
 で、その用地買収の対象になったのが、カメノコ横丁で、大将は住民の反対の取りまとめ役になります。
 町田吟月は病院の前で、変な、佐田真弓をバカにしたような歌を歌い、まわりに人々が集まってきます。
 と、ここまでが前フリです。どうにも長いけど切るわけにいかないので仕方ない。多分普通の人はここまで読むのに4分ぐらいかかってるんじゃないかな。

 まず、
1・歌っている吟月のところに真弓が来て、「荒木さんに会わせてください」と話します(向かって左が真弓で右が吟月)
2・「ご用でしたら私が伺いましょうか」と菊江がタッタッと来る(向かって左が菊江になり、右が真弓になる。真ん中で吟月が困った顔をしている)
3・菊江が笑いながら反対側を向くので、その向いた顔に合わせて真弓が移動する(向かって左が真弓になり、右が菊江になる)
4・再び菊江が向きを変えるので、真弓も移動する(2と同じ構図になる)
5・止めようとする吟月を、菊江が「どいてよ!」と突き飛ばす
6・さらに菊江と真弓の言い争いが続くが、ここでの構図は吟月からの視点。つまり3の構図になる。えーっ、イマジナリーライン越えてるやん!
7・さらにそこからカメラがぐーっと上のほうに引いていって、長屋のみんなが写り、菊江は「先生(とんかつ大将)には長屋じゅうのみんながついてます、って、(真弓の父には)そう伝えればいいの」とタンカを切り、長屋の一同は、そうだそうだ、とうなづく

 ここで6のイマジナリーライン越えが不自然に感じられないのは、その前に3の構図があったからで、なんで6の構図で7を撮ったのかというと、なんか人間の心理として「感情移入がしやすいほうが向かって右(上手)」というのがあるみたいなんですよねえ。
 いやはや、これには柳家小三治の「船徳」なみに驚いた。

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