砂手紙のなりゆきブログ

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刺し身にキナコつけてジャム塗って食べたような気分になる映画(トワイライト ささらさや)

 主人公(ヒロイン)のサヤは、売れない落語家でもうじき真打ちになるはずのところのユウタロウと結婚していて、ユウスケという子供も一人いる女性。ところがユウタロウが事故で死んでしまって、霊魂として人の体に乗り移って会話できるということになり、ユウタロウの父親から隠れて、ささら市という田舎の町に暮らすことになります。
 駅員の軽い若者・佐野や、子供はいるけど旦那がいない勝気のエリカ、それに近所のおばさんたちと知り合い、いろいろなことが起こりますが、基本的には親子の縁について考えるような、比較的どうでもいい現代落語みたいな話になっています。
 ユウタロウの役を演じる大泉洋は、だいたい何をやっても大泉洋で、落語家をやっても、私立探偵をやっても、江戸時代の戯作者見習いをやっても、学校の先生をやっても、真田一族の人をやっても大泉洋
 キャラが立っていてメソッド技法にのっとった演技をしない役者というのは、基本的にクサくなります。
 メソッド技法というのは、半世紀前に非常にはやった役者の演技で、一言で言うと「その役の人間が、どうしてそういう風になってしまったのか、なりきって演技する」というものですが、これは非常に役者の精神を病ませるものでありまして、レオナルド・ディカプリオなんてそのためにしょっちゅう体をこわしています。狂人の役を演じるんじゃなくて狂人になるようなもんですからな。
 今までぼくが見た大泉洋の映画は、「過去」と「役割」にあまり意味を持たせない話でした。
 つまり、話の中で「現在との関係が薄い過去」と「一つの役割」を持てば大丈夫な話です。
 ただ、この『トワイライト ささらさや』(2014年)は、師匠と関係する弟子、妻と関係する夫、子供と関係する父親、父と関係する息子、の、最低4つの役割を演じないといけないんですね。
 みなさんも日常生活では、サラリーマンであったり、親であったり、子であったり、ネットでくだらないことを書いている人であったり、という役割を無意識にやってますよね。それは演技する日常です。
 まあそれはともかく、今までいろいろな役を演じてきた大泉洋を見すぎていたせいか、どうもこのユウタロウの役がしっくりこない。
 脇役ながら重要な人物であるユウタロウの父親(石橋凌)のほうが、孫と関係する祖父、義理の娘と関係する義父、といった演技をしているように思えます。
 しかしまあ、そんなのはたいした問題ではありません。
 問題は映画の中に使われる音楽の、過剰な情報コントロールで、チャラくした久石譲みたいな、宮﨑駿の映画(アニメ)ではいい感じだけど、北野武の映画(実写)では時々失敗している感がただようみたいな曲の案配です。
 特に、ユウタロウとサヤが泣きながら抱き合って最後の抱擁をするシークエンスは、だいたい4分ぐらいあって、音楽とシークエンスの組み合わせとしては今まで見た映画で最悪と言ってもいいかもしれないです。
 落語的に言うと「音楽がつくだけ情けない」。
 曲の単体として聞く分には、ヒッチコック映画のバーナード・ハーマンと同じく悪いものではないんで、ひょっとしたらアニメやゲームのような異空間(非実写)だったらよかったんだろうな。
 そうなってしまった原因と責任は、役者や音楽家の責任じゃなくて、何かを決める人(監督やプロデューサー)にあります。
 ただ、音楽的センスと知識を持っている監督は何人か知ってますが、プロデューサーとなると不明なのです。

 本日は1438文字です。