ケン・リュウ『紙の動物園』で勉強する短編集の短編の終わらせかた
ケン・リュウ『紙の動物園』(2015年、早川書房)は、日本で独自に編纂された個人短編集で、15作品が収録されています。
芸風は、星新一のアイデアに現代科学っぽいもの入れて(これは人工知能を扱った短編が入ってるせいもあるかな)、クリアな情景描写で、うまいな、と思わせて、登場人物は藤棚を歩く人の顔に薄い紫の死の影がかかっているような、前向きの無常さを感じさせて、訳者あとがきによれば「多作なテッド・チャン」と言えなくもない、とのことなので、今後の紹介も楽しみです。
オチ小説ではないんで、結末について話してもいいと思うんですが(核になるアイデアについては触れません)、なんかスルスルと次の話に読み続けられるな、と、気がついたら登場人物がみんな前向いて歩いてる(走ってる)せいなんですね。
たとえば表題作「紙の動物園」の最後はこんな感じ。
『ぼくらは家に向かって歩き出した。』
で、最後に掲載されている短編「良い狩りを」はこんな感じ。
『過去のように魔法で満ちあふれた未来に向かって駆けていくのだ。』
そんな感じで、もはやいない父と歩いたり、岸辺を歩いたり、朝を迎えたりするわけです。
こういう終わりかただと、続きましてのお話は、みたいに、実にうまく次の短編に頭の中がつながってしまう。
そういうのってぼくだけですかね。
ひどいこと言ってしまうと、うまいことオチになっていない。
映画で言うと、手を握り合ったふたりがハート型にアイリス・アウトして「そしてふたりは、いつまでも幸せに暮らしました」というオチじゃない。
要するに、20世紀末のレイモンド・カーヴァーみたいな、どっか柴田元幸が好きで翻訳してそうな、その30年ぐらい前には常盤新平が翻訳してそうな、あまりモーパッサンの血を引いていない作り。
短編的には、まとまりとして一番よくて、あまりSFじゃないのが難点だけど、ちゃんとひどい結末がついているのは、最後からふたつ目に入っている「文字占い師」なんだけど、これを短編集の最後にしなかった編者(訳者)がすばらしいです。
そして、次の曲がはじまるのです。
本日は879文字です。