砂手紙のなりゆきブログ

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小説の冒頭で一番よかった作家はというと

 どうにも小説の、エピソードごとの書き出しに難儀しているので、昔の作家をパクることにしました。
 すでに死んでいる外国人作家(著作権切れてる人)の、ちゃんとした翻訳を参考にテキストをいじって使う。
 まず図書館に行って、古い文学全集(1960年代末から1970年代はじめにかけて刊行された「新潮世界文学」って分厚い本)の冒頭をカチャカチャと、スマホブルートゥースでつながるキーボードで入力するのです。
 この全集は、だいたいどの文学全集もそうだけど重くて、冒頭だけのために図書館から借りるのはめんどくさい。だいたいどの図書館もけっこう遅くまでやっていて、キーボードを叩いても迷惑でない場所がある。
 つくづく思ったのは、フランスの19世紀作家の冒頭はつまらない、ということです。
 その代わりに序文があるんですかね。
 序文がなくなって、「この物語は…」的な語りが小説の冒頭に組み込まれるようになったのは、19世紀末ぐらいかなあ。
 大岡昇平訳のスタンダール『パルムの僧院』はこんな感じ。

『一七九六年五月一五日ボナパルト将軍は、ロジ橋を突破した若い軍隊を率いてミラノにはいった。』

 だから何だよ、と言いたくなる。
 平岡篤頼訳のバルザックゴリオ爺さん』はこんな感じ。

『ヴォケー夫人、旧姓ド・コンフラン、は四十年前からパリで下宿屋を開いている老婦人で、彼女のその下宿は、カルチェ・ラタンとサン・マルソー地区の間にあるヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ街に位置している。』

 もう全力で、読みたくなくなるオーラがにじみ出てる。
 ちょっとよくなるのは、ドストエフスキー
 木村浩訳の『白痴』はこんな感じ。

『十一月も末、ある珍しく寒のゆるんだ雪どけ日和の朝九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車が、全速力でペテルブルグへ近づいていた。とても湿っぽく霧のふかい日だったので、あたりはようやく明るくなりかけたところだった。』

 これが、原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』だと、こんな感じ。

『アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフは、今からちょうど十三年前、悲劇的な謎の死をとげて当時たいそう有名になった(いや、今でもまだ人々の口にのぼる)この郡の地主、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフの三男であった。この悲劇的な死に関しては、いずれしかるべき箇所でお話しすることにする。』

 少しだけ、物語を語るぜ、という文体になるわけです。
 今のところ、感心したのはロマン・ロランという作家。名前ぐらいは知ってるけど、読んだことはない。
 新庄嘉章訳の『ジャン・クリストフ』。

『河の水音がごうごうと家のうしろで高まっている。雨は朝から窓ガラスをたたいている。すみっこにひびの入ったガラスに、水蒸気の滴(しずく)が流れている。黄色っぽい昼の光が消えていく。部屋はなま暖かく、どんよりしている。』

 宮本正清訳の『魅せられたる魂』。


『彼女は光に背をむけて窓ぎわにすわっていた。落日の光線をその首やがっちりした襟首にうけて。彼女は今しがた帰ったところであった。幾月このかたはじめて、アンネットは戸外で一日を過ごして、田舎で、歩きまわり、この春の日光に酔うた。芳醇なぶどう酒のように陶然とさせる日光は、葉の落ちた木々の陰にもうすめられず、そして去ってゆく冬のさわやかな空気に生気をおびていた。』

 この時代になると、映像的に語る、という手法が生まれて定着してるんですかね。20世紀のはじめぐらい。
 訳者によってだいぶ変わると思うので、訳者・作者の順で紹介してみました。他の翻訳テキストも打ち込んでみよう。