桜と死
人が季節に秋を感じるより一足早く、桜の木の葉は色を変えて、だらだらと枯れ葉を落としはじめます。
春の桜の花が、命の盛りに急な病気で入院してそのまま帰らなくなった人のように残酷に散るのに対し、秋の桜の葉は、長患いの老人で、じわじわと弱って天命のように散ります。
病院に植えられた桜の木の花が散るころ、最後の春の暖かくなりかけた頃に病人は死に、秋の桜の木の葉がだらだらと散るころ、酷暑と長い残暑を乗り切った老人は息絶えます。
桜の木の盛衰を見るたびに思うのは、あと何回そのような春と秋を見ることができるか、要するに死について真面目に考えなければならないな、ってことです。
入院した若者は、春の彼岸に遺言を書き、いつ死ぬかわからない老人は、お盆に身辺整理をします。
大事で恥ずかしいサイトのIDとパスワード、恥ずかしいだけの保存画像や昔のテキストは、生きているうちになんとかしないといけないのです。
そうしてさらに考えることは、第二次大戦中の日本の、強いられた死に臨んだ若者たちのことです。彼らは若いときに死んでしまったので、戦後70余年経っても若者です。
阿川弘之は、エッセイ「「あゝ同期の桜」に寄せる 第十四期海軍飛行予備学生遺稿集「あゝ同期の桜」を読んで」の中で、以下のようなことを書いています。阿川弘之全集第16巻P206
『立大出身の須賀芳宗(注:遺稿を残した者のひとり)が書き残してゐるやうに、昭和二十年の春の九州の桜は、ずゐぶん長い間美しく咲いてゐたらしい。そしてその桜の季節が、沖縄への特攻作戦のもつともたけなはであつた時期である。
出て行く者は、みな飛行機や飛行服に桜の花をさしてもらつて出て行つたといふ。日本の歴史に、これほどいたましい桜の花ざかりはなかつたであらう。』
大日本帝国の大義と、家族を守るために、日の丸と桜を背負って散っていった人たちの親族や友人も、もう今はいなくなりつつあります。兵士となった子供を持つ母親は、数年前に千鳥ケ淵の戦没者追悼式典から消えました。妻子を持つこともなく、若者として死んだ兵士の子供はいません。