砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

英米のSF作家と著作権(コードウェイナー・スミス)

 素人の翻訳者が適当にネットで翻訳を発表するためには、著作権関係であれこれ言われないテキストを見つけることが必要になります。
 日本の法律で著作権が保護されているのは、一応2018年2月の段階では「死後50年」、匿名の場合は「公表・公開後50年」ということになっています。要するに1967年以前に亡くなっている日本人の著作物に関しては、どのように扱っても問題はないはず。
 具体的には、江戸川乱歩(1965年没)とか。明智小五郎怪人二十面相のBLを書いても大丈夫(かもしれない。ただちょっと別の人がその名前の権利を持ってるかもしれないので本当はよくわからない。
 第二次世界大戦中、日本と戦争をしていた国は「戦時加算」というものがあるのですこし違います。
 前に書いたテキストをまるまるコピペすると、

sandletter.hatenablog.com『ちょっとややこしいのが「戦時加算」という、世界中で今は日本しか使っていないイレギュラーなものがあります。
 要するに、第二次大戦中の、具体的には1941年12月7日以前から1952年4月28日(サンフランシスコ講和条約)までに発表された著作物は、最大10年ちょっとだけ著作権が残ることになります(特定の国だけですが)。
 で、ダシール・ハメットは1961年に亡くなってるんですが、『マルタの鷹』(1930年)その他の代表作は戦前に書かれているので、2022年ぐらいまで著作権はあることになっています(多分)。
 レイモンド・チャンドラーは1959年に亡くなっていて、代表作『長いお別れ』(1953年)は著作権切れです。『大いなる眠り』(1939年)から『かわいい女』(1949年)までの長編5作は、2020年ぐらいまで著作権はあることになっています(多分)。
 イアン・フレミングは1964年に亡くなっていて、ジェームズ・ボンドのシリーズ第一作『カジノ・ロワイヤル』(1953年)から全部著作権切れです。』

 でもって、同じようにSF作家で探してみると、いないんだよなあこれが。
 たいていのSF作家は二十代でデビューして、21世紀まで普通に生きてる。アイザック・アシモフ(1992年没、72歳)なんてまだ早死にのほう。
 SF周辺作家ではいないことはないです。
 エドガー・ライス・バローズ(1950年没)とか、ロバート・E・ハワード(1936年没)、エイブラハム・メリット(1943年没)とかね。
 SF作家以外だと、ジェイムズ・ジョイス(1941年没)も版権フリーなんだけど、素人には手に負えない。
 クラーク・アシュトン・スミス(1961年没)は、まだだめ。1953年とかに出版した本はないですからね。
 ところが! E.E.スミス(1965年没)のほうは、『スカイラーク対デュケーヌ』(1965年)が版権フリー(のはず)! 他のレンズマンとかスカイラークのシリーズはだめなんですけどね。
 ということで、いろいろこつこつ、こいつもまだ長生きだよなー、なんでSF作家は早死しないのか。夜中に酒飲みながら書いている(と思われる)怪奇小説とかハードボイルド作家とは違うんだな、と思ってたところに、大物をひとり見つけました。
 その作家の名前は…。
 その作家とは…。
 と、もったいぶってても仕方ないですね。今日の日記の見出しにある通り、コードウェイナー・スミスです。
 コードウェイナー・スミスは1966年8月6日没。デビュー短編「スキャナーに生きがいはない」(1950年発表)その他はだめなんだけど、「鼠と竜のゲーム」(1955年発表)なんかは大丈夫なはず。
 ちょっと自信がないので、もうすこし版権に関して知識のありそうなかたに現在確認してもらっているところ。
 しかしねえ、伊藤典夫浅倉久志の名訳があるのに、なんでコードウェイナー・スミスを素人が翻訳し直さなければならないのか、という根本的な問題があるのよね。
 ということで、ヘンリー・カットナー(1958年2月4日没)なんかはどうかな、とか思う。『たそがれの地球の砦』(1943年発表)なんかは、まるまるほぼ10年の戦時加算じゃなくて、だいたい8年だから、2016年あたりに漠然と版権切れてる気がするんだよなー。

櫂は三年櫓は三月(らくだ)

 落語『らくだ』は、長屋でひどく評判の悪い男・らくだがフグを食べて死んじゃって、その兄貴分と出入りの紙屑屋がしぶと(死人)の「かんかん踊り」でもってシブチンの大家その他からいろいろ葬礼(そうれん)の金と酒などを仕入れる話です。
 これは上方では1時間、東京では30分ほどのネタで、紙屑屋が酒を飲みながらだんだん酔って、兄貴分に対する態度が豹変するところが面白いということになっています。
 さて、その酒は煮しめその他と一緒に大家さんからもらうわけですが、「悪いんじゃご免こうむる」と言ってどのくらいの酒をもらったと思いますか。
 一升? 二升? いやいや。なんと三升。
 でもってそれを飲みながら、紙屑屋がこんな話をします。

 自分も昔はそれなりに、表通りに店を出していて、丁稚のニ、三人も置いていた男で、かみさんもいいところからもらって娘も一人いたんだけど、裏長屋でこんな商いをすることになったのも、みんな酒のせい。最初のかみさんは貧乏暮らしに慣れてなくて、風邪で三日も床についたら死んじゃった。娘を置いて商売に出るんだけど、帰るのをずっと待ってて、家に帰って「おとっちゃん、かえって来たのん?」というその子の手を触ったらもうすっかり冷たくなって、もうもうもう……。

 ……聞いとんのかこらぁ! と、怒り上戸状態になった紙屑屋が、らくだの兄貴に怒鳴りつけます。
 ここまででこの紙屑屋、茶碗酒で何杯飲んだと思います?
 なんと、かけつけ三杯で、四杯目からこの状態。
 まあここらへんが、落語という芸のうまいところやろね。八代目橘家圓蔵なんか「演技力がないから早く酔っちゃうんだ」って感じでやってますが、みんなだいたい似たようなもんです。何杯目で酔うかとか、そこで酒みんななくなるのか、とか思わない。
 でもこの落語、稽古するのは大変だよね。酔っちゃうともう、稽古なんてどうでもいいや、みたいな気になるし、酔わないと酔った人がうまく演じられない。
 弟弟子とかに酒おごってやって、ちょっとお前、紙屑屋やってくんない? とかやるとうまく行きそうな気がします。
 ええと、三年、ってことでしたね。これは、らくだが長屋にやって来てから、一度も家賃を払わないで居続けた年数。
 おなじ三年で、『芝浜』の魚屋は立派な店を表通りに持つことになります。
 ところが『化物使い』の下男は、三年間、人使いのあらい元御家人の男にこき使われているだけです。
 なかなか、三年という期間の区切りに、実感的な意味を持たせるのは難しいもんですね。
 自分のブログも、気がつけばもう三年以上続けてるんだけど、はてな運営者に店賃は一銭も払ってない。
 というのは嘘です。毎月最低額は払ってるはず。
 ところで、自分の新しい目標として「三年ぐらいになんとか、ほどほどに長くてそんなに難しくない、著作権が切れている英語のテキストを日本語で読めるようにしてみる」というのを立ててみました。

緩く教えて・時計の中の「殻竿」って何?

 最近は古今東西のアンソロジー(短編集)をごちゃまぜにしながら読んでます。
 その中の一冊にあったのが『アザー・エデン』(エヴァンズ&ホールドストック・編、早川書房、1989年)という本。イギリスSF傑作選というタイトルのとおり、(ほぼ)イギリスの作家の作品を集めたアンソロジーで、訳者も複数なので、あー、この翻訳者はこんなふうに漢字・ひらがなを使いわけてるんだ、って、どうでもいいことも楽しめます。
 どうして浅倉久志の訳が読みやすいかって、その理由のひとつが、だいたいひらがなにしてる、ってところにあるんだけど、ほかの訳者は「かれ」なのに、浅倉久志の場合は「彼」だったりして。本当にどうでもいいことですね。
 で、どうにもこうにも謎の用語が出てきて困ったのが「アミールの時計」(イアン・ワトスン大森望・訳)の以下の部分。

『時計がひとつの種から次の種へと移行しても、基本的なデザイン----噛みあった歯車、溝のついた円盤、殻竿、一対の巻き胴----は、変わらない』(本文P104)

 ……殻竿って何? あと巻き胴も。
 自分が知ってる殻竿はスネイルで、これはなんて言えばいいんだろうな、柄つき棍棒? ウィキペディアに「スネイル」で載ってるからあとで見てみてください。そんなものが時計(のデザイン)と関係あるとはとても思えない。
 原書も数百円でアマゾンで売ってるから、元テキストはなんて書いてあるのか確認しようと思えばできるんだけど、面倒くさい。キンドルだったらさくっと買ってしまうところなんだけど、英語のリアル本を取り寄せるほどこの作品には興味ない。というのは失礼だな。そういうの無視しても(元テキストを読まなくても)面白い話です。翻訳本ももう、当然ながら品切れ重版未定なんで、ネットか図書館で探すしかないけど。
 えー? アザー・エデンって「3」まで出てるの?
 それはともかく、タイトルの「アミールの時計」のアミールもわからないですよね。アラビアの王族・貴族の称号らしいです。本文では「首長」って漢字に「アミール」ってルビがあるから、なんとなくわかる。アラブ首長国連邦が英語表記だと「United Arab Emirates」(発音は面倒くさいので調べてません)。
 しかし、「積荷崇拝者」に「カーゴ・カルト」ってルビふってあっても、さっぱりわからないのよな。これもウィキペディアを読んでやっと知ることができました。グーグルとウィキペディアがあって本当によかったな。あとアマゾンも。
 で、時計の中の「殻竿」に関しては、結局不明のままです。

緩く募集・1万光年の星へ一瞬で着ける方法の元祖

 1万光年先の星へ着くには、光の速さで1万年かかります。
 で、それだけの距離を移動しながら、同時に時間移動(1万年分過去に戻る)もすれば…。
 1万光年先まで一瞬に行ける。
 これは、映画だとヒッチコック『めまい』(1958年)の中で使われて有名になった、「トラックバック(ドリーアウト)しながらズームイン」する手法、つまりドリーズームと似ています。
 被写体の大きさを変えずに遠近感を変えることになるので、「な、な、な、なんだこれは」というような登場人物の主観が、映像的にわかりやすく表現されるので、ヒッチコック以降のサスペンス映画によく使われるようになりました。有名なのはやはりスピルバーグの『ジョーズ』、サメが出てきたのを見て驚く警察署長ブロディの場面ですね。
 要するに、タイムマシンが実用可能だとしたら、超光速航法も可能になる。
 しかし、このアイデア、昔読んだSFの、何に一番最初に出てきたのか覚えてないので、ご存知のかたがいましたら教えてください。
 とりあえず「ドリーズーム航法(あるいは、めまい航法)」とでも言っておこう。

目で見ないとわからない落語(一目上がり)

 落語は戦後からビデオが普及するまでの間は、ラジオやレコードの聴覚芸術として楽しまれることが多く、目で見て面白い話はともかく、目で見ないとわからない話は残らないことになってしまいました。
 仕草で禅問答をするのが話のキモである「蒟蒻問答」は映像の容易な入手が可能な時代になって復活した例の代表的なものですが、なんとも困った代物なのが「一目上がり」という話です。
 要約しますと、これは正月のめでたい話で、大工の八五郎(八っつぁん)が横丁のご隠居の床の間にある掛け軸を見て「賛」という語を知り、「けっこうなサンで」と、他の人の掛け軸を褒めようとすると、それは「詩(シ)だ」「悟(ゴ)だ」と順に言われたので、あー、これは一目上がりで褒めるんだな、と思って、「けっこうなロクですね」と言ったら「いやこれは七福神だ」というのが一般的なオチです。でもってこれは別に、聴覚だけでもわかるんですよね。
 その話に出てくる掛け軸は、以下のようなものです。

 三代目三遊亭金馬の演目では以下のようになっています。
賛:
「しなわるるだけは答えよ雪の竹」
詩:
「近江(きんこう)の鷺は見がたく、遠樹(えんじゅ)の烏見易し」
悟:
「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売り、汝五尺(ごしゃく)の身体を売って、一切衆生の煩悩をやすむ。柳は緑、花は紅(くれない)の色いろ香。池の面(おもて)に月は夜な夜な通えども水も濁さず影も止めず」

 別の掛け軸にしてある噺もあります。
賛:
「横にゆく蟹にも恥じよわが穴を たちかえりみる心なき身は」
詩:
「仁に遠き者は道に疎(うと)く 苦しまざる者は智に于(うと)し」(伝:富岡鉄斎
悟:
「遊ばんと欲す 遊びて足らず 楽しまんと欲す 楽しみて足らず 貪(むさぼ)らんと欲す 貪りて足らず」(沢庵禅師)

 で、こっちのほうの「詩」なんですけど、漢字で書いてあるんですよね。

『遠仁者疎途 不苦者于智』

 これはつまり、何と読むかというと、なんとなんと。

「おにはそと ふくはうち」!

 この落語をやる落語家は、掛け軸(みたいなもの)を持って、説明しながらやって欲しいものだ、と思いました。
 今回のネタ本は『マンガ落語大全 まずはここから』(高信太郎講談社、2003年)です。

ペンティメント(リリアン・ヘルマン)

『ペンティメント』はアメリカの女性作家リリアン・ヘルマンによる小説で、日本では『ジュリア』という映画公開に合わせて、映画と同じ邦題で1978年に翻訳されました(パシフィカ)。そのあと早川書房の文庫にもなってます。
 映画に言及する形で、映画評論家の山田宏一は、和田誠との対談『たかが映画じゃないか』(1978年)の中で、この語について以下のように、脚注引用の形で紹介しています。

『カンヴァスに描かれた絵の古い絵具が年月のたつうちに透明になってくることがある。すると、絵によっては一番はじめに描かれた線が見えてくる。女のドレスの下から樹が姿を現わし、子供の姿の向こうに犬が居り、一隻の大きな船が浮かんでいるのは、もはや大海原の上ではない。この現象はペンティメントと呼ばれる。描いた人間がもとの絵を「後悔」し、心変わりしたということである。言い換えれば、昔抱いた考えは、後に変わることがあっても、また姿を現わし、再び現われてくるものだと言えるかもしれない。』(リリアン・ヘルマン「ジュリア」中尾千鶴訳・パシフィカ)

 早川書房のほうは大石千鶴訳になっていますが、同じ人です。
 日本語にすると、逆・思い出補正?

こわい話を書くときの留意点

 新しい年(2018年)がはじまったので、ぼちぼちこのブログにもテキストを書くことにします。個人的なメモみたいな感じで、思いついたことを書くだけなので、思い出したら読んでみてください。
 2018年の目標として「短編小説をいろいろ読む」ということにしてみました。毎食前後に読むので、一日3つぐらい? 短い話かと思ったら、思った以上に長かったのでどうにもこうにも困ることもあります。「坑夫」(宮嶋資夫)とかね。
 短い話を読んでいると短い話が書きたくなるもので、そういうのを考えると、こわい話が一番作りやすいかな、とか思う。
 こわい話を書くときには、以下のことをやってはいけない、ということになります。

・主人公(語り手)が実は死んでいる、という話はだめ
・主人公と話している人間が実は死んでいる、という話はだめ
・オチがある話はだめ

 はじめのふたつはまあ、ありふれてるんで避けたい。実に素人というのは、こういう話を作りたがるもんなんですね。お前は都筑道夫じゃないだろ、と、自分で自分にツッコミ入れたくなる。
 最後のはどう言ったらいいんだろうな。こわい話というのはまあ、曖昧な結末なんですよ。よくできた話はオチがあって、困ったことにこわくない。