否定形を否定形で訳さない(I don't think...)
こういう英文があります。
I don't think so.
これは普通に訳せば、
「私はそうは思わない」
この訳しかたで女子高生でも大学生でも、翻訳家でも問題ない。ただねえ、「ドント」と最初のほうに否定が入る場合、「○○ない」と日本語の最後のほうに否定を入れるのは、なんか違う気がするんだよね。
つまり、それはこう訳すと英語に近くなる気がする。
「違うと思う」
だから、今日のブログ記事の、正しい見出しはこういうこと。
【否定形を肯定形で訳す】
これ、うまくやるとかなりプロっぽく見えるのよね。
別の例を挙げると、
It's not important.
これは普通に訳せば、
「重要じゃない」
プロっぽく訳すと、
「ちっぽけなこと」
どこがうまい具合になってるかというと、「インポータント」の「ポ」と、「ちっぽけ」の「ぽ」の音が合ってる!
「物」が「人」に「○○させる」って表現、どうなの?
こういう英文があります。
The hammering anoyed her.
これは、普通に訳すとこうなります。
「ハンマーの音が彼女をいらいらさせた」
こういう風に英文和訳すれば問題ない。
早稲田でも東大でも、オックスフォード大でも入れる(まあ外国には英文和訳の試験問題はないとは思うけど)。
でもねえ、なんか納得しない、というか、落ち着かないんですよ。
もう一度和訳を見ます。
「ハンマーの音が彼女をいらいらさせた」
「ハンマーの音が彼女をいらいらさせた」
「ハンマーの音が彼女をいらいらさせた」
念のために3回コピペしてみました。
つまりどうして落ち着かないかというと、「物」が「人」に「○○させる」って表現は、本来の日本語には多分ない気がするんですよ。
今の季節にふさわしい和歌を例に挙げてみます。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる(藤原敏行・古今和歌集)
「おどろかれぬる」ってのは「ハッとする(気づく)」って意味ね。
つまり後半は、現代語だとこうなるわけ。
「風の音にハッとした」
いいですか。
「風の音にハッとした」
「風の音にハッとした」
「風の音にハッとした」
つまり、「物」に「人」が「○○する」というのが普通なわけ。
「風の音にハッとさせられた」という現代語訳したら、古文の先生は「かれぬるの解釈違ってる」って言う気がする。「れ」は「自発の助動詞「る」の連用形「れ」」だから、「自然と~される」「~しないではいられない」やん。ただ、ネットで検索しても平気で「ハッとさせられた」としているテキスト見つかるのよね。
でもって、だから最初の英文は、多分こうすると日本語っぽい。
「ハンマーの音に彼女はいらいらした」
まあ、「彼女は」はなくても、文脈がしっかりしていれば通じますよね。
「ハンマーの音にいらいらした」
これは「いらつかせるハンマーの音だった」のほうが、日本語的にはいいんだろうけど(自分が日本語のテキストで書くんだったら多分そう書きます)、英文は「ハンマー」ではじまるから、日本語にするときもそうしたい。
photo opportunityという語について
どうも、英語を日本語にする際に、英語っぽいものを混ぜてみると、今の日本語的にはうまく行きそうな気がするんです。まあ昔の英語だと駄目ですけどね。
で、photo opportunityという単語(二語による名詞)について。
普通に考えると、
「写真の機会(好機)」
だけど、まあ、opportunityは「チャンス」でも問題ない。
つまりこの語は、
「シャッター・チャンス」
!!!!!
ビックリマークが5つ並んでしまったよ。
copyという語について
5か月ほど顔を出しませんでしたが、またぼちぼちはじめます。
何をしてたかというと、ライトノベルを読んで、翻訳の勉強して、物語を書いてました。
物語を書くのはブログテキスト以上に適当でいいんだけど、なんか横文字を縦文字にするスキルって面倒なんやね。要するに、英語が読めるってだけなら、あれはもう全部ひらがなで書いてあるようなもんだから、頑張らなくても適当になんとかなるわけよ。一番簡単で安価なのは、キンドルで拾った、ほぼタダの本をトークバックで聞いてればいい。ひと月ぐらいすると、意味わかんなくても、まあいいか、って気分になるんで、まあパルプマガジンのアーカイブとか覗くと、SFも含めていろいろあるから、スマホでは読みにくいんでタブレットとか使って読めないことはない。面白いかどうかは別にして。日本人が書いた50年前のSFだって、面白いかどうかは別の問題ですからね。
でも、日本語にできるかというと、そんなことはない。つまり、いくら英語を読んでも多分無理なんだな。
しょうがないので、翻訳テキストと英文テキストを並べて読むわけですが、ものすごく勉強してるな、って気にはなるんだけど、本を読んでる、って気には全然ならない。首をひねるというか、首をかしげるのが多いのよね。
そんなのからネタ拾って見ようかな、とか思う。
で、copy、という単語について。
辞書には「複写」「複写する」とかそれに類似した名刺・動詞しか、ざっくり調べると出てない。
実際には、エージェント(秘密諜報員)がこっそり忍び込むときに、ロック解除してくれる役の人と、無線連絡の状況を確かめあうときに使います。
つまり、
Copy.
とあったら、
「感度良好」「了解」
と訳す。
Do you copy?
だったら、
「聞こえるか」「応答しろ」
と訳す。
もともとは無線業界(ってのあるのかね)から来た用語らしいです。
これは比較的簡単な例。
柱や仕切りその他縦の線に意味を持たせたくない場合は、その線に重なるように人物を撮る(ハドソン川の奇跡)
実写の映画は、アニメと違って背景や手前の小道具をごまかし切るということができません。つまり、普通に室内なら壁やドア、屋外なら木立やビルといった「縦の線」が入ってしまいます。「横の線」はまあ、入らないことはないんだけどそれなりにごまかせるんだけど、もう一度気になりはじめると鬱陶しくって仕方ないんですよ、この「縦の線」という奴は。
会話をしている人物の間に入る、横に入る、一本だけじゃなくて複数入る、とかもう、もうもうもう。
今のところそれを意識しはじめてから見た映画で一番うまく処理しているように思えた映画は佳本周也監督の『少年ギャング』(2012年)だったんですが、そんな、誰が知ってるかみたいな映画はともかく、えーっ、と驚いたのがクリント・イーストウッド監督『ハドソン川の奇跡』(2016年)。
この映画は、ハドソン川に緊急水着陸した飛行機事故で有名な話(USエアウェイズ1549便不時着水事故)を元に作られた、最近の映画にしてはとても短い、96分の映画で、主役の機長をトム・ハンクスが演じています。
で、そのラストはどういう感じかというと、事故調査委員会で、これはもっとすごい事故になりかねないところを、機長の腕でなんとかした、ということが認められて、副操縦士と並んで笑顔になるふたりのショット。
ね、わかるでしょ。会議室の背景が2色のパネル(黒と茶色)になっていて、そのつなぎ目の「縦の線」に人物が重ならないように撮ってる! え、言われないとわからないって、まあそうだよね。
スタンリー・キューブリックのおかげで映画の構図が気になってしかたない
どういうふうに気になるかというと、人物が歩いてたり、会話してたりするじゃないですか。で、会話している場面とかで、背景や小道具がどのように置かれているか(人物にかかっているか)というのを、ちゃんと監督がコントロールしてるか(計算してるか)ということ。
つまり、背後の柱とか、手前の花瓶とかの置く位置は、監督の意図している通りになっているのか。
具体例をあげると、『フルメタル・ジャケット』(1987年)の有名な場面ね。
デブがドーナツを隠し持っていたせいで、みんなが腕立て伏せをさせられる(デブはドーナツを食べさせられる)という、これ。拾い物の画像だと、ちゃんと線が引いてあった。
どういうことかというと、この「腕立て伏せをしている人たち」が、ずっと背後のほうまでデブの体で隠れないようなポイントを選んで撮ってる。多分これ、あと数センチも前後に立ってたらそうはならなかったはず。
ただこれ、残念なことに、天井の照明にキューブリック監督のほうが充分な意味を持たせられなかった(ように自分には思う)んですよね。変な(曖昧な)形でデブの顔に隠れてる。
こういうのはねえ、いい加減に撮っても話の筋にはまったく影響がないんで、何日間も、何テイクも取る意味って本当はないんですよ。要するに「自分はすごい」と、わかる人にはわからせるだけの技術です。
でも、それがわかると、本当に他の映画監督の映画の「構図」は、それでちゃんと意味があるのか、と考えてしまって、映画が楽しめません(あるいは、一層映画が楽しめるようになります)。
アニメ作ってて実写を撮った人、特に『シン・ゴジラ』(2016年)の庵野秀明監督なんかは、そういうのちゃんとやってそうなんだけど、どうなんでしょうね。「あと3センチ右のほうに寄って立ってて」とか言いそうなんだよなー。
アニメの場合は、実写と違ってすべての場面がコントロールできるわけですからね。
レイ・ブラッドベリが1967年に他界していたら、と、ひどいことを夢想する
これはきのうのブログのつづきです。
sandletter.hatenablog.com SF業界の長生き作家というと、レイ・ブラッドベリとジャック・ウィリアムスンで、どちらも21世紀まで生きました。ブラッドベリは2012年、ジャック・ウィリアムスンは2006年没。
そこでちょっと、ブラッドベリがもし1967年に他界していた世界があったとしたら、と、不埒なことを考えます。そうだなあ、フランソワ・トリュフォー監督の映画『華氏451』(1966年)が公開されてて、スタンリー・キューブリック監督が『2001年宇宙の旅』(1968年)をせっせと作っていたころ。
前のブログテキストを覚えてますか。
1・日本の法律では、版権フリーになるのは作者の死後50年後
2・日本と戦争していた国とは、「戦時加算」というのがあるので、1952年4月28日(サンフランシスコ講和条約)以前の作品は、最大10年ちょっとぐらい伸びる
ということで、ブラッドベリがもし1967年に他界していたら、以下のものが日本国内では版権フリー扱いになります。
『華氏451度』(1953年)
『たんぽぽのお酒』(1957年)
『何かが道をやってくる』(1962年)
「雷のとどろくような声」(1952年)以降の短編
すごいですね。
『火星年代記』は1950年発表なんで、戦時加算の対象になるからまだ無理。
『ハロウィーンがやって来た』は1972年発表だから、1967年に他界されたのでは書けない。
それでねえ、「雷のとどろくような声」なんだけど。
これ、雑誌に発表されたのが雑誌「コリアーズ」1952年6月28日号。
でもって、戦時加算の対象になる作品はサンフランシスコ講和条約(1952年4月28日)以前。
もうすこしくわしく、でもないけど雑に英語版ウィキペディアを見ると「The Lawns of Summer」ってのが雑誌(だと思う)「ネイションズ・ビジネス」1952年5月号に掲載されてるから、それ以降のほうがいいのかな。