砂手紙のなりゆきブログ

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映画のリアルと虚構(ヴィルモス・スィグモンド)

 映画というのは小説(文字)と違って、少なくとも商業映画ではどのようにも撮れるというわけではありません。
 小説の場合も商業小説としての制約はありますが、「どうしても撮れない角度」みたいなものは映画にはありまして、撮影機材としては1960年代までのミッチェルから携帯が比較的容易なアリ・パナの時代を経てステディカム、さらにはデジタル・CGと、その表現の自由度は広がりましたが、映画は常に虚構とリアルの、技術的制約を背負った中間部分にあるように思えます。
 リアルじゃなくても映画的に面白いからいいじゃないか、という志向は、今の映画技術ではここまでしか撮れない、というミッチェル時代のスタジオロケ方式に回帰するということになります。つまり、リアルな映画に飽きるとメタ的な、虚構っぽい映画になってもそんなに製作者も視聴者も困らない、ということでしょうか。
 1970から80年代の映画を見ると、なんでこんなに汚しているの、と、不思議に思うものもありますが、それは多分ロバート・アルトマン監督の映画『ギャンブラー』(1971年)とその撮影監督だったヴィルモス・スィグモンド(ジグモンド)の影響下にあるんじゃないかと勝手に思っています。
 ヴィルモス・スィグモンドハンガリーの映画学校を卒業し、ハンガリー動乱のドキュメント・フィルムを2万フィート撮ったんだけど、どこにも買い手がないため二束三文で売り払って、アメリカでの亡命生活の足しにしながら10年間安っぽい映画を撮り続けた修行のうえでの達人です。同胞には『イージー・ライダー』(1969年)で名をあげたラズロ・コヴァックスがいます。
 もうこの撮影監督の(疑似)ドキュメンタリー風映像ってすばらしくリアルに汚れてて、最近ではウディ・アレンとも仕事をして、『ウディ・アレンの夢と犯罪』(2007年)『恋のロンドン狂騒曲』(2010年)などを撮影してます。『ブロードウェイと銃弾』(1994年)などを撮影したカルロ・ディ・パルマがもう、わざと狙ってコテコテのハリウッドっぽくしている(としか思えない)のと見比べてみると面白いんじゃないかと思いました。

 映画『ギャンブラー』はロンドンでスタンリー・キューブリックが見て、たまたま隣の映画館で『2001年宇宙の旅』を見ていたロバート・アルトマンに終了後「どうやって撮ったんだ、あのカメラワークは」と驚愕しながら聞いたというエピソードがあります。