砂手紙のなりゆきブログ

KindleDPで本を出しました。Kindleが読めるデバイスで「砂手紙」を検索してください。過去テキストの一覧はこちら→http://d.hatena.ne.jp/sandletter/20120201/p1

どうも桂米朝の話を聞いてると書割の前で芝居している人を見ている気になっちゃう

 作業用BGMとして桂米朝の落語を毎日少しずつ聞いてます。長いの多いんで聞いてるほうもけっこうヘトヘトになる。聞いてて楽しいだけの話ってあまりなくて、なんか勉強させてもらってる、という気分になるのが心理的に微妙なのです。なんかこう、話の作り込みというか、リアルの方向が演劇(芝居)に感じられるのがどうもね。季節感がある話もその調子なんで、春の山遊びも、夏の暑い盛りに苦労してみかん手に入れる話も、寒くて寂しい寺で和尚の酒こっそり飲む話も、どうも映画・映像的に迫ってくる感じがしない。音曲つきなのがいけないんですかね。その代わり、芸者遊び・茶屋街遊びの話なんかはとても面白いです。『親子茶屋』とか『百年目』とか。
 どうも芸を磨くのに金をかけすぎてる気がする。芝居とか遊びに金かけないで、ちょっと寒い冬とか暑い夏に舟こがせてもらったり、春に高尾山に登ったり、暮れに芝浜(というか、それっぽいところ)で震えながら朝日を待つとかすると、もっと現代の映画を見ている人でも理解できる話を仕込めるんじゃないかな。
 ただもう、これは落語にどういう芸を求めるか、という話になっちゃいそうなので、桂米朝の芸風を他の誰かと比較して云々するということはありません。