砂手紙のなりゆきブログ

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モームの不思議な短編「物知り博士」での物語の結末を8つ考える

 イギリスの作家サマセット・モームは、モーパッサンの血を継ぐ「オチのある短編小説」(その手の話は、延々と現代のSF・ミステリーの短編小説に受け継がれています)の名手で、モーパッサンの名作「首飾り」からヒントを得た話として「物知り博士」という作品を書いています。
 作品はネットにも翻訳(個人訳)が出てて、岩波文庫の『モーム短篇選 下』に収録されており、諸般の事情でざっくりオチまで以下に書きます。というのは、オチそのものが謎なので、ネタバラしてもそんなに問題ないと思うんです。

 物語の主人公は、太平洋航路で東洋に行くことになって、いけすかないAという人物と相部屋になります。Aはその何でも知ってるという言動で「物知り博士」というあだ名がつけられ、船中の嫌われ者になりました。
 主人公およびこの男Aと食事の席が同じ人物に、Bとその夫人であるB夫人がいました。Bは仕事の関係で1年間夫人をニューヨークに置いて、単身神戸で働き、船は一緒に日本へ戻る旅でした。
 あるとき、夫人がつけている真珠の首飾りの話になり、Aは「俺は真珠の貿易をしているので、言っちゃ何だがけっこうくわしい。夫人がつけてる首飾りの真珠、ざっくり3千ドルはするね」と言いました。
 するとBは大笑い。「その首飾り、ニューヨークを出る前日に18ドルで買ったものですよ」
 Aはむきになって「じゃあじっくり鑑定させろ。間違ってたら100ドル払う」
 …ってんで鑑定していると、どうも夫人の様子がおかしいんですね。
 しばらく虫眼鏡とか使って鑑定したAは、「申し訳ない、確かにこれは安物の真珠だ」と言って100ドル払いました。
 それから船室に戻った主人公たちだけど、しばらくしてAあての表書きのある封筒がドアの下から差し込まれました。中には100ドル紙幣。
 Aは100ドルを財布にしまい、その手紙をびりびりに破って窓から海の外に捨て、こう言いました。
「私にもしかわいい妻がいたら、神戸にいる一年の間妻をニューヨークに置き去りにすることはないだろうね」
 主人公はAのことを、ほんの少しいい奴だと思うようになりました。

 …っていう話。
 単純に考えれば、
1・B夫人の首飾りは本物
2・Bはその首飾りが偽物と思っている
3・Aは夫人をかばうために嘘を言った
 という、ちょっといい話なんですが、よく考えると謎の多い話です。
 まず、その首飾りが本物かどうか、読者にはわからない(それが判定できるAが本当のことを言っているのか嘘を言っているのかわからない)。さらにBとその夫人にもわからない(夫人が誰かにプレゼントされた首飾りは偽物かもしれない)。
 さらに、100ドル紙幣の入った封筒の出し主が(驚くことに)BなのかB夫人なのかもわからない。小説の中では封の表書きに「ブロック体」で書かれていたというだけ。
 そこでこの話は、
1・B夫人の首飾りは本物/偽物
2・Bはその首飾りを偽物と思っている/本物だと知っている
3・Aは夫人をかばうために嘘を言った/本当のことを言った
 と、2×2×2の8通りの話が考えられます。
1・B夫人の首飾りは本物で、Bはその首飾りを偽物と思っていて、Aは嘘をついた
2・B夫人の首飾りは偽物で、Bはその首飾りを偽物と思っていて、Aは嘘をついた
3・B夫人の首飾りは本物で、Bはその首飾りを本物と知っていて、Aは嘘をついた
4・B夫人の首飾りは偽物で、Bはその首飾りを本物と知っていて、Aは嘘をついた
5・B夫人の首飾りは本物で、Bはその首飾りを偽物と思っていて、Aは本当のことを言った
6・B夫人の首飾りは偽物で、Bはその首飾りを偽物と思っていて、Aは本当のことを言った
7・B夫人の首飾りは本物で、Bはその首飾りを本物と知っていて、Aは本当のことを言った
8・B夫人の首飾りは偽物で、Bはその首飾りを本物と知っていて、Aは本当のことを言った
 この中で、話の内容に合致するのは「1」だけが明示されていますが、「3」「6」「8」の可能性もあります。それ以外はこれとは別の話になるので外します。
 しかし世間の誰にでも簡単にわかるだろう「真実」を、これだけややこしい(あいまいな)結末にしているサマセット・モームの技術はあきれます。そんなこと考えるのはぼくだけか。
 ぼくの考えた結末は、「…という話を主人公は相変わらずいけすかないAをネタにして考えてみた」あるいは「…という夢を見た」というオチです。
 なんか「いけすかない奴がけっこう実はいい奴だった」ってオチは、きれいすぎて居心地悪いです。
 だいたい、100ドルもらったのはB夫人のほうじゃなくてBなんだから、Bがこっそり返した、というのが普通じゃないの?