砂手紙のなりゆきブログ

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大岡昇平が『レイテ戦記』の野間賞(野間文芸賞)で受けた辱め

 大岡昇平の長編小説『レイテ戦記』(1971年)の野間文芸賞に関するもめごとは、『成城だより』1980年9月10日の日記で、曽野綾子の女流文学賞辞退と関連して、彼自身は以下のように述べています。
 ちょっと要約だとまた「誤聞」になりそうなので関連テキストまるまる紹介します。

『やや旧聞に属すれども賞の暴力につきては、『レイテ戦記』に関して、野間賞にて、筆者似たような(注:事前に「賞の候補にしてもかまわないか」と著者に確認すること。これは辞退されると面倒なので、今はどの文芸賞もやっているはず)不愉快な経験あり。野間賞の性格に不満にて辞退との誤聞あるらしければ、この際明らかにしておく。
 筆者、五年の苦心作、第一次選考にて落とされたること、恥辱なり。しかも三年前に雑誌連載終了時に候補の話あり、単行本にて見て貰うと言明しあるをもって、一層腹立つ。すぐ委員を辞任してもいいが(注:当時大岡昇平野間賞の選考委員でした。委員の作品が候補とかになってもいいのか)、落とされたから止めるのでは体裁悪い、今期だけ不出席にて勤むべし、という。
 ところで二、三日して、当日欠席委員より、最終候補に残らぬはおかしいとクレームつき、出席委員の一人翻意す、という。そんならと、なに気なく機嫌直したが、翻意委員より猫撫声の電話あり、その意不明なるも、彼は眼病にて本読めず、録音させて聞くと称す。「地図は録音できねえからな」といったはず、夢醒む。これにては選考委員の総体ではなく、クレーム委員とこの翻意委員に恩を着ることとなる。翻意委員は故人だが、この人に恩を着たら、将来なにをいわれるかわからず、辞退の意を固めたれど、『レイテ戦記』については、中央公論社担当の社員に一方ならず世話になっている。決定的に辞退する前に、諒解得たく思って電話すれど不在。翌朝、「お気のすむように」との言を聞いて、野間賞世話係りに連絡すれば、なぜ昨日それをいわないか、全員に恢復了解取ったという。事情説明し(翻意委員個人についてはいわず)改めて辞退するのは、おれの自由じゃないか、各委員に通告変更は容易のはずと主張す。ところがこれが通らない。一旦候補作ときめた以上は選考するという。筆者また腹立ちて、おれは第一次にて落とした委員を混えての審議を拒否しているのだ、おれだって選考委員の一人だ、これは議事進行についての提案でもあるんだぞ、当選したって受けないよ、と通告す。』

 結局野間賞は落選しまして、

『その他いろいろ不愉快なことあれど、第三者の名誉に係わればいわず。それに『レイテ戦記』は他の賞を貰い、後に『中原中也野間賞貰って、結局筆者はもうかった。しかし筆者の忌避せる翻意委員一人反対にて、中原の悪口から始って、筆者の経歴にまで悪口雑言尽したる珍選評を残す。すべて文献となっているから、この機会に事情を明かにしておく。』

 ここで名前が伏せられている「欠席委員」は不明ですが(もう少し調べる)「翻意委員」は舟橋聖一ということが判明してます(1976年没)。
 確かにこの人の恩を着たらその後何言われるかわからないけど、まあ死にかけてるんだから数年言われる程度だと思う。
 ちなみに舟橋聖一のライバルで、「目白の舟橋、三鷹の丹羽」と言われた丹羽文雄は、舟橋聖一よりだいぶ長生きしたので(最後のほうはボロボロですが)思う存分彼の悪口が書けたんじゃないかと思った。
 かっこいいのは曽野綾子さんなんだけど、自分が辞退した女流文学賞のパーティに出てるんだよね(中央公論社の他の賞との合同パーティですが)。
 もっとかっこいいのは大西巨人で、川端賞の候補になったとき、「個人の名の賞は受けない」。大岡昇平は「その人について言論阻害さる」というおそれがあるんだろうな、って推測してます。
 さらにかっこいいのは正宗白鳥で、「自分の名前の賞はつけないように。俺に不本意な作家が受賞すると嫌だから」という遺言。ぼくもそのくらいの遺言をしてみたい。
 なお、「○○さんが受賞している(あるいは、していない)から」という言い訳で候補作になるのを辞退すると、生涯その文学賞はもらえなくなるので言ってはいけません。