文豪・舟橋聖一の武勇伝(日本文芸家協会編)
舟橋聖一は戦後、菊池寛死後の文藝春秋社の役員を前に「菊池寛のあとはぼくがひきうけた」と大見得を切って失笑されますが、菊池寛とは馬主仲間であったため、自分も彼と同格ぐらいに思い、川端康成なんかはてんで格下あつかいでした。
そして、菊池寛が残した10万円(当時)の金を使って日本文芸家協会を作り、講談社に事務室を設け、石川達三・丹羽文雄・富田常雄らと一緒に理事になりますが、その際には「ぼくが理事長でないと嫌だ」と小児ヒステリイ(丹羽文雄による記述)を起こして床に寝転んで手足ばたばたしてダダをこねたので、しょうがないので彼を理事長にすることにしました。
富田常雄は舟橋聖一の弟子ぐらいの格で、石川達三の小説はたいしたことないと舟橋聖一は思っていたので、丹羽文雄はあきらめました。
その後4期理事長を務めた舟橋聖一は、日本ペンクラブの代表として国際ペンクラブ大会に行くことになった石川達三を夫婦ともに築地の料亭で接待し、これで次の理事長の座も自分のものだと思っていたところを、なんと石川達三が立候補して理事会で彼が理事長に選ばれました。
その事情について、船山馨ら身内の説明に納得いかなかった舟橋聖一は、丹羽文雄の家に行って「どういうことだ」と聞いたら「君が理事長だから日本文芸家協会には入らないという文士が3人いる」と説明され、夕食を丹羽文雄の家で食べて帰りました。
そのことを生涯の屈辱と思っていた舟橋聖一は、「ぼくは丹羽文雄の家には2回行ったが、彼はぼくの家には1回しか来ていない」と、ことあるごとに言及しました(もう1回行った事情は不明)。
どうも舟橋は、誰かの家に行くとその人間より格下になるという意識があったらしいです。ちなみに彼が主催している「伽羅の会」には水上勉も呼ばれて1度だけ参加して弟子扱い。
なお舟橋が「丹羽文雄は1回だけ来た」というのは、何かのお祝いごとで丹羽文雄ではなくその妻が行っただけのことで、そのときには妻を前にして勝手に一人夕食を食べていたそうです。
その後舟橋聖一は、築地の料亭の請求書を見て、当時秘書的なことをしていた今井潤を「この額は高すぎるから負けさせろ」という交渉の使いに出し、料亭も呆れながら、舟橋さんならしょうがないから、ということで半額にしました。
書きなおされた請求書を見て、舟橋聖一はひとこと、
「お手柄」
以上の記述は、丹羽文雄『人間・舟橋聖一』(1987年、新潮社)に依拠してます。
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