砂手紙のなりゆきブログ

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ヘタに演じる・描写することについて(TARI TARI)

 ナボコフ『絶望』(1934年)の小説的に特異な事情は、この物語の語り手が「ヘタな作者」であり、そのことを作者が自覚していない、という風に本当の作者(ナボコフ)が書かないといけない、という点にあります。
 つまり、この小説を読んで「うまいな」と感じたらだめなので、「うまくヘタに書けてる」と感じないといけないんですね。
 こういう「うまい人がヘタに演じる・描写する」ということに対しては、どうもぼくの偏執的なこだわりが、映画・小説にはあるようです。
 アニメ『TARI TARI』(2012年)は、合唱をテーマにした友だちアニメで、冒頭部分では全日本合唱コンクールの常連校である幕張総合高等学校合唱部が、『true tears』(2008年)のOPである「リフレクティア」の合唱バージョンを歌うんですが、そこでは声楽部の指導教諭である高倉直子先生の「ソプラノでしゃばらない、テナーはメゾフォルテ」という指導が正しいように、ソプラノがでしゃばって、テナーがメゾフォルテになっていない歌いかたをしています。
 小説で、文章を書くのに慣れていない人が書いたようになっているのは『アルジャーノンに花束を』(1966年)が有名なんだけど、あからさまにヘタなんじゃなくて、少しヘタに書くってのはけっこう難しいんだよなあ。
 落語『寝床』で、旦那さんの義太夫がうますぎたらだめですよね。だからたいがいの落語家はその義太夫がどういう風にヘタなのかを、あえて演じないようにしている。まあ、今の人に義太夫のうまい・ヘタなんてわからない、というのもありますかね。
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