砂手紙のなりゆきブログ

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書きグセ(西崎憲と夏目漱石)

『文芸翻訳入門』(藤井光・編、フィルムアート社、2017年)、「小説翻訳入門」(西崎憲)の章から。

『本章では翻訳小説の読者から、翻訳の勉強をはじめたばかりという方までを対象に、翻訳という作業のあらましを記そうと思う
 あらましを記すといっても、それはじつは大変な作業であり、紙数も多くないので、結局は随想のようなものになると思う。どうか気軽に読みすすめていただきたい。筆者の仕事の範囲は英米小説の翻訳なので、英語中心にならざるを得ないが、ある程度は他言語の翻訳にも通じるのではないかと思う。』

 わかりやすくするために、書きグセになりがちな部分を太字にしてみました。
 4つの句点で区切られる文章のうち、3つが「思う」で終わっているのは多すぎるのでは、と思う。
 翻訳の場合は、そういう風にならないよう、ある程度工夫してるはずなので、フリーすぎるテキストを書く場合には、自分の書きグセを意識しないといけないんだ。
 今どきの作家には師匠はいないし、編集者もそういうのあまり注意したりしないし、読者はどうでもいいと考えてるので、直らないんだよね。直すようにとは誰も言わないから。
 ジャズなんかもそういう、インプロビゼーションの際に手癖で、パラッパパー(トランペットの場合)とか、テレレロレロレロ(サックスの場合)とかなるのを、慎重にコントロールしてるんじゃないかな。観客に「出た、今日のパラッパ!」と受けるレベルまで。
 自分が意図的に避けているのは、「曖昧な「が」で文章をつなげない」ということです。
 ここでサンプルとして、夏目漱石吾輩は猫である』冒頭を出してみます。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。』

 これを以下のようにすると、実にヘタっぽく見えるんだ。

吾輩は猫である、名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ、何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た、あとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である、その当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。』

 その手の曖昧な「が」ってのは、大佛次郎レベルでもやってるから、本気で削らないといかんのです。