砂手紙のなりゆきブログ

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役割の恐怖(白ゆき姫殺人事件)

 昔から普通の人間の恐怖は、犯人(容疑者)にされることでした。
 異性の前では恋人、家族の中では子供、会社の中では会社員、などと人間はさまざまな状況に応じて自分の役割を演じますが、容疑者になるとそういう役割が全部取り払われる。
 フリッツ・ラングの『激怒』(1936年)は、映画の中におけるその最も古い例のひとつで、誘拐事件の容疑者と勘違いされた主人公は留置場に入れられ、群衆に火をつけられ、ダイナマイトで爆破されます。
 見終わったあとどうもすっきりしないのは、この映画の真犯人が最後まで不明なことなんだよね。
 一応、真犯人の5ドル札を入手したところがあるはずなんだけど、どうも思い出せない。誰でしたっけ。
 日本映画の『白ゆき姫殺人事件』(2014年)は、とある女性が容疑者になったということで、今までと言ってることを変える関係者と、最後まで信じる友人が出てきて、泣かせる話なんですが、ちょっと真犯人に関しては、作り込みに無理がありすぎて納得できなかった。
 一応謎解き系のミステリー映画なんで真犯人は伏せますが…実は最初の殺しのシーンの影で、容疑者が犯人(真犯人)ではない、ってのが、2回めに見るときにはわかるようになってて、変なところで感心しました。
 この話、金曜の夜に殺人事件があって、土曜日に報道されて、日曜日に重要参考人Sさん関係の取材を地元でするのか。月曜日に取材した情報が流れ、火曜日に犯人わかる。